「中越戦争」の版間の差分

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== 戦況の推移 ==
{{ベトナム}}
中国は56万の軍をベトナム国境に集結させ威圧した。1979年[[2月17日]]、中国は「懲罰行為」と称して、[[雲南]]と[[広西]]からまず10万の陸上軍によりベトナム北部に侵攻した。中国ではこの決定を「對越自衛反撃戦」と呼び、ソ連・ベトナム連合の侵攻を恐れての行動でもあった。この時期、ベトナム軍主力はカンボジアにあり、北部には正規軍3個師団ほど(約3万人)と民兵しかいなかったが、この民兵は[[ベトナム戦争]]において米軍に勝ちベトナムを統一した主力であった(彼らは戦後、故郷に帰っていたが、再び民兵として防衛部隊を構成した)ために、彼らは実戦経験が豊富であり、さらにベトナム戦争時の大量のソ連製や中国製の長距離砲を含む各種の武器、弾薬も残っていた。そればかりでなく、[[南ベトナム]]政府が持ってい軍から接収し米国アメリカ戦車や兵器([[M101 (105mm榴弾砲)|M101 105mm榴弾砲]]、[[M114 (155mm榴弾砲)|M114 155mm榴弾砲]]、[[M113装甲兵員輸送]]火砲や弾薬も[[M41軽戦車]]、[[M48 (戦車)|M48中戦車]]、[[UH-1 (航空機)|UH-1 イロコイ]]汎用ヘリ、[[F-5 (戦闘機)#F-5A/B|F-5 フリーダムファイター]]軽戦闘機、[[T-37 (航空機)#A-37ドラゴンフライ|A-37 ドラゴンフライ]]軽攻撃機、[[A-1 (航空機)|A-1 スカイレイダー]]攻撃機など)の量に半も使用可能であり、まさに精鋭の民兵だった。
 
中国軍は国産の[[62式軽戦車]]を主力にベトナム北部に侵攻したが、ベトナム軍の対戦車兵器により大半が撃破され、またベトナム国境付近は地雷原になっていたために歩兵を進めるのは困難だった。そのため中国軍は軽戦車から[[69/79式戦車|69式戦車]]と[[59式戦車]]といった [[MBT]]や[[中戦車]]を投入し、山越えをしてベトナムの側面に回りこむ策に出、さらにゲリラ戦に遭うのを防ぐため徹底的に山やジャングルを[[63/80式装甲兵員輸送車|70式130mm30連装自走ロケット砲]]や[[火炎放射器]]で攻撃した。(この戦争後に69式戦車は西側に公開された。)
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しかし作戦は思うように進まず、ベトナム側の反撃が予想よりも強かったため中国軍は初めての[[対砲兵レーダー]]の使用に踏み切った(これが陸戦における形勢逆転につながった)。対するベトナム軍は、大量の敵歩兵に背後に回り込まれることを防ぐため、複数の陣地を構築し、敵に損害を与えつつ陣地戦を行い整然と後退した。中国軍はその後、ベトナムの防衛線を突破し、順当に[[2月26日]]に[[ラオカイ]]を、[[3月5日]]にはベトナム北部の要所[[ランソン]]を占領することに成功し、ベトナム北東部全域を制圧したが大損害を出した。ベトナム軍主力は包囲されることなくランソンから後退した。その日の夜、中国中央軍事委員会は[[3月6日]]からの撤退を命じ、[[新華社]]もそれを報じた。3月16日にはベトナム領から撤退した。なお、この当時ランソンで取材中だった『[[しんぶん赤旗]]』[[特派員]][[高野功]]が中国兵に銃撃され死亡している。
 
当時の装備の面ではベトナム軍は、ソ連からの全面的な支援を受け陸上戦力・航空戦力ともに高い水準を維持していた。中国では中ソ対立以前のソ連製の兵器をもとに装備の開発をおこなってきた、例えば、当時中国軍の最新型[[戦闘機]]は [[MiG-21_(航空機)|MiG-21]] の初期型である MiG-21F-13 をもとに中東や西側から入手した物を基にしたレーダーやエンジンを搭載させて発展させた[[J-7_(航空機)|殲撃七型]]であったが、ベトナム軍では MiG-21 の完成型である MiG-21bis が運用されていた。中国軍の主力機は殲撃七型、レーダーを積んだ[[MiG-19 (航空機)|殲撃六型]]([[MiG-19_(航空機)|MiG-19PM]] の発展型)、[[レーダー]]を搭載せず武装搭載量も貧弱な[[J-5_(航空機)|殲撃五型]]([[MiG-17_(航空機)|MiG-17F]] のライセンス生産型)で、[[爆撃機]]は[[H-5_(航空機)|轟炸五型]]([[Il-28_(航空機)|Il-28]] のライセンス生産型)や[[H-6_(航空機)|轟炸六型]]([[Tu-16_(航空機)|Tu-16]] のライセンス生産型)を保有していたが、いずれも当時すでに相当の旧式機の領域に入っていた。地上軍でも、中国軍は旧式の車輌が多かった。([[69/79式戦車|69式戦車]]、70式130mm30連装自走ロケット砲、[[Q-5]] 攻撃機などは例外)。とは言ってもベトナム陸軍も戦車は [[T-55]] が主力であり、[[T-34|T-34/85]]も使用していた。また、ベトナム軍では過去にアメリカ軍や旧南ベトナム軍より鹵獲したアメリカ製兵器([[M113装甲兵員輸送車]]、[[M41軽戦車]]、[[M48 (戦車)|M48中戦車]]、[[UH-1 (航空機)|UH-1 イロコイ]]汎用ヘリ、[[F-5 (戦闘機)#F-5A/B|F-5 フリーダムファイター]]軽戦闘機、[[T-37 (航空機)#A-37ドラゴンフライ|A-37 ドラゴンフライ]]軽攻撃機、[[A-1 (航空機)|A-1 スカイレイダー]]攻撃機など)も多数運用されていた。
 
 
当時の装備の面ではベトナム軍は、ソ連からの全面的な支援を受け陸上戦力・航空戦力ともに高い水準を維持していた。中国では中ソ対立以前のソ連製の兵器をもとに装備の開発をおこなってきた、例えば、当時中国軍の最新型[[戦闘機]]は [[MiG-21_(航空機)|MiG-21]] の初期型である MiG-21F-13 をもとに中東や西側から入手した物を基にしたレーダーやエンジンを搭載させて発展させた[[J-7_(航空機)|殲撃七型]]であったが、ベトナム軍では MiG-21 の完成型である MiG-21bis が運用されていた。中国軍の主力機は殲撃七型、レーダーを積んだ[[MiG-19 (航空機)|殲撃六型]]([[MiG-19_(航空機)|MiG-19PM]] の発展型)、[[レーダー]]を搭載せず武装搭載量も貧弱な[[J-5_(航空機)|殲撃五型]]([[MiG-17_(航空機)|MiG-17F]] のライセンス生産型)で、[[爆撃機]]は[[H-5_(航空機)|轟炸五型]]([[Il-28_(航空機)|Il-28]] のライセンス生産型)や[[H-6_(航空機)|轟炸六型]]([[Tu-16_(航空機)|Tu-16]] のライセンス生産型)を保有していたが、いずれも当時すでに相当の旧式機の領域に入っていた。地上軍でも、中国軍は旧式の車輌が多かった。([[69/79式戦車|69式戦車]]、70式130mm30連装自走ロケット砲、[[Q-5]] 攻撃機などは例外)。とは言ってもベトナム陸軍も戦車は [[T-55]] が主力であり、[[T-34|T-34/85]]も使用していた。また、ベトナム軍では過去にアメリカ軍や旧南ベトナム軍より鹵獲したアメリカ製兵器([[M113装甲兵員輸送車]]、[[M41軽戦車]]、[[M48 (戦車)|M48中戦車]]、[[UH-1 (航空機)|UH-1 イロコイ]]汎用ヘリ、[[F-5 (戦闘機)#F-5A/B|F-5 フリーダムファイター]]軽戦闘機、[[T-37 (航空機)#A-37ドラゴンフライ|A-37 ドラゴンフライ]]軽攻撃機、[[A-1 (航空機)|A-1 スカイレイダー]]攻撃機など)も多数運用されていた。
 
この戦争の犠牲者に関しては、中国人民解放軍の昆明軍区の報告書である「対越自衛反撃戦総結」では2月17日から2月27日までにベトナム軍1万5000人を殲滅し、2月28日から3月16日までに3万7000人を殲滅したと主張し、自軍の戦死者は6954人戦傷者は1万4800人ほどだと報告している。一方ベトナム国防省の軍事歴史院が編集した「ベトナム人民軍50年 (1944-1994)」では60万人の中国軍2万人を殺し、4万人を負傷せしめたと記している。中国首脳部はこの戦争で人民解放軍の立ち遅れを痛感し、軍の近代化を推し進めるようになった。(戦車においては[[69/79式戦車|69式戦車]]しか賞賛に値する戦果は残せなかった)一説では[[鄧小平]]が[[文革]]以来乱れていた軍を引き締めるための教訓をあたえる目的があったというが事実は不明。
 
ベトナムはヘン・サムリン体制を保護するため、その後もカンボジア駐留を続け、[[1980年]]6月には隣国[[ラオス]]と[[タイ王国|タイ]]の国境紛争に介入してタイに侵攻するなど、影響力強化のための軍事介入を続けた。改革開放路線である[[ドイモイ]]体制が始まって、[[1989年]]9月にようやく撤収した。
 
== 中越戦争とその後の国境紛争の映像 ==
[http://jp.youtube.com/watch?v=ECbhcqdIN5g カオヴァンの戦い(中越戦争、ラオカイ占領後の戦い)]