「三遊亭志ん蔵」の版間の差分

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[[桂文蝶]]等と同じ[[天狗連]]出身で[[1909年]]に上京し[[雷門助六|5代目雷門助六]](後の[[古今亭志ん生 (3代目)|3代目古今亭志ん生]])に入門し'''昇六'''で初高座。[[柳亭左龍 (2代目)|2代目柳亭左龍]](俗に「江戸名残の怪談師」)の元で落語を稽古付けてもらい、怪談噺に精進する。師匠助六が[[古今亭志ん生|志ん生]]襲名を機に自身も'''志ん蔵'''と改名。[[江戸]]と[[上方]]の[[寄席]]を行き来する生活が始まる。
[[大正]]初年頃に[[桂文團治#3代目|3代目桂文團治]]の代役で『お岩の幽霊』を勤めたを縁に怪談噺に演じることになる。
[[1923年]]の[[関東大震災]]で震災し[[東京]]を離れ大阪を定住し[[吉本興業]]専属となり[[三遊亭圓子]]の門下身内になり三遊亭'''志ん蔵'''と改める。
圓子と共に旅回り専門となり全国を怪談噺だけで旅に出る。この頃に「幽霊志ん蔵」と呼ばれるようになる。
戦後は上方で数少ない明治から継承されてた古い怪談噺を演じる落語家として重宝される。
 
絵心があり[[笑福亭松鶴 (5代目)|5代目笑福亭松鶴]]の楽語荘の同人で「上方はなし」の挿絵を描いていた。その他にも噺家の写真をこまめに撮影したり、紙粘土で人形を作り『家富貴人形』と称して噺家に頒布したりした、
 
散歩中にスクーターに足を惹かれて骨折し高座を離れる。晩年は弟子もおらず身寄りがなく、大阪養老院で[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]、[[旭堂南陵|3代目旭堂南陵]]に世話になる。
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得意ネタは[[三遊亭圓朝|初代三遊亭圓朝]]の古い型の「[[四谷怪談]]」「[[牡丹燈籠]]」「[[お岩]]」「[[二人お岩]]」など。
 
[[露の五郎兵衛#2代目|2代目[[露の五郎兵衛]]は入門当時弟子のように可愛がられ晩年怪談噺高座に掛ける際は幽霊役を勤めていた。
 
==出典==
*諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』[[平凡社]]、ISBN 458212612X
*古今東西噺家紳士録
 
[[Category:落語家|さんゆうてい しんそう]]