「足利義昭」の版間の差分

これに不満を持った義昭は信長を排除しようと企み、[[顕如|本願寺顕如]]や[[武田信玄]]、朝倉義景らに信長討伐令を下して信長包囲網を形成する。この包囲網には、[[浅井長政]]や松永久秀、三好三人衆、[[三好義継]]らも加わった。これにより信長は一時的に窮地に陥ったが、元亀4年([[1573年]])4月の武田信玄の病死を契機として信長包囲網は瓦解する。
 
4月、義昭は三好義継、松永久秀らと同盟を結び、山城槇嶋城にて挙兵する。これは[[正親町天皇]]の勅命もあって和睦するが、7月に再度挙兵。信長は[[京都|京の町]]を焼き払って義昭を捕らえ、[[河内国|河内]]に追放した。一般に、これによって室町幕府は滅亡したとされる(ただし朝廷から[[征夷大将軍]]職を解任されたわけではなかったので、反信長派諸大名の間では、その後しばらく権威を保っていた。また、[[京都五山]]の[[住持]]任命権は五山を定めた[[足利将軍家]]にあると考えられていたため、その任命のための献金収入もあったと言われている。『[[公卿補任]]』(朝廷の人事録)では、[[関白]][[豊臣秀吉]]に従って御所へ参内し、秀吉への忠誠を誓って、正式に[[征夷大将軍]]位を辞官する[[天正]]16年[[1月13日_(旧暦)|1月13日]]([[1588年]][[2月9日]])まで征夷大将軍として扱っている)。
 
=== 再びの流浪 ===
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