「古河藩」の版間の差分

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古河の地は、[[1455年]](康正元年)に、初代[[古河公方]] [[足利成氏]]が本拠としたことで知られる。古河公方は、成氏没後次第に衰退し、[[後北条氏]]の関東支配体制に組み込まれた後、第五代の[[足利義氏|義氏]]が[[1582年]](天正10年)に没した際に、名実ともに滅亡した。
 
[[1590年]]、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]によって[[後北条氏]]が滅ぶと、その後に関東に入封した[[徳川家康]]は、[[小笠原秀政]]([[信濃]][[守護]]の末裔)を3万石で入れた(ただし、古河城を修復・拡張する間は、一旦、[[栗橋城]](現在の茨城県[[五霞町]]及び[[埼玉県]][[栗橋町]])を居城としていた)。[[関ヶ原の戦い]]後、秀政は[[信濃国]][[飯田藩 (信濃国)|飯田]]へ移封され、代わって[[上野国]][[白井藩|白井]]より[[松平康長|松平(戸田)康長]]が2万石で入ったが、[[常陸国]][[笠間藩|笠間]]へ移封。[[武蔵国]][[本庄藩|本庄]]より[[小笠原信之]]がその後を受けて入ったが、子の[[小笠原政信]]のとき、下総国[[関宿藩|関宿]]へ移封。代わって[[下野国]][[宇都宮藩|宇都宮]]より[[奥平忠昌]]が入るが、[[宇都宮城釣天井事件]]によって忠昌は再び宇都宮に戻され、常陸国笠間より[[永井直勝]]が入る。しかし子の[[永井尚政]]のとき、[[山城国]][[淀藩|淀]]へ移封。そして下総国[[佐倉藩|佐倉]]より、[[徳川秀忠]]・[[徳川家光]]に仕えた[[老中]]の一人で有名な[[土井利勝]]が16万石で入るが、孫の[[土井利益]]のとき、[[志摩国]][[鳥羽藩|鳥羽]]へ移封(本来ならば無嗣断絶のところであったが、利勝の功績などから許されて、存続したのである)。
 
代わって[[徳川綱吉]]時代の[[大老]]・[[堀田正俊]]が上野国[[安中藩|安中]]より9万石で入るが、子の[[堀田正仲]]のとき、[[出羽国]][[山形藩|山形]]へ移封。[[大和国]][[郡山藩|郡山]]より[[松平信之|松平(藤井)信之]]が入るが、子の[[松平忠之]]が発狂して改易される。その後、綱吉の側近であった[[松平信輝]]が入るが、子の[[松平信祝]]の時、[[三河国]][[三河吉田藩|吉田]]へ移封。三河国[[刈谷藩|刈谷]]より[[本多忠良]]が入るが、次男の[[本多忠敝]]のとき、[[石見国]][[浜田藩|浜田]]へ移封。入れ替わりで、浜田より[[松平康福]]が入るが、三河国[[岡崎藩|岡崎]]へ移封。このように、古河藩は藩主家の交替が激しく、どれも長続きせず、支配が定着しなかった。