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'''本間 四郎三郎'''(ほんま しろうさぶろう、[[1732享保]]17[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1733年]][[2月9日]]) - [[享和]]元年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]([[1801年]][[7月11日]]))は、江戸時代、[[出羽国|出]][[酒田市|酒田]]の[[豪商]]である。
 
はじめ久四郎と号した。名は光丘。父は庄五郎。
 
==経歴==
その後[[相模]][[愛甲郡]]本間村にいた。よって本間氏を称する。子孫は[[佐渡国|佐渡]]および[[越後国|越後]]に移り、[[足利季綱]]のとき出羽庄内に移る。孫の光重(光繁とも)に到って[[永禄]]年間、酒田に住んだ。曾孫の庄三郎のときに酒田の長人になり、家は次第にに栄えた。
 
四郎三郎もまた長人となり、父祖の志を体し、奉公の念厚く、経済の理に通じ、[[最上川]]の水利を治め、[[天明の飢饉]]では金穀を施し、[[宝暦]]8年([[1758年]])、資財をなげうち酒田の西浜に防砂林を植えるなど、功績が多く、宝暦12年([[1762年]])[[庄内]]はこれを賞して[[町年寄]]とし、[[明和]]4年([[1767年]])士格に列し、小姓格となした。また藩士の借財を整理し、本間家の低利な資金に借り換えさせた。明和5年([[1768年]])酒田、鶴岡両城普請掛を命じられ、備荒貯蓄米24000俵を献じた。功によって500石30人扶持を給せられた。ときに江戸藩邸が焼失し、そのうえ[[徳川家慶]]の加冠の謝恩使を命じられるなどして財政が窮乏を極めたが、[[安永]]4年([[1775年]])藩主[[酒井忠徳]]の命をもって藩の財政改革に携わり、おおいに奔走したが、これを妬む者もあったためついにこれを辞した。藩主の命によりふたたびこれにあたり、功績はおおいに上がった。[[天明]]8年([[1788年]])藩士が[[富士川]][[大井川]][[安倍川]]の修治を命じられると、藩命によって大阪の巨商から資金を借り入れ、事を弁じた。[[寛政]]4年([[1792年]])北海の警備のために大砲10門を献上し、海防に資した。[[米沢藩]][[上杉治憲]](鷹山)が重臣をしりぞ退け藩政改革をくわだて、 戸善政を起用すると、 戸は四郎三郎を酒田に訪ね、これから金穀を借り軍備を修め、田地の[[開拓]]などをすることができた。鷹山の治績がおおいに上ったのは、四郎三郎の献替が大きかったという。明和4年(1767年)酒田港口に灯台を建てた。
 
[[大正]]6年([[1917年]])特旨をもって正五位を贈られた。
 
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[[Category:江戸時代の人物]]
[[Category:1733年生]]
[[Category:1801年没]]