「盗まれた世代」の版間の差分
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'''盗まれた世代'''(英:The Stolen Generation)とは、オーストラリア政府や教会によって家族から引き離されたオーストラリア・[[アボリジニ]]と[[トレス
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▲'''盗まれた世代'''(英:The Stolen Generation)とは、オーストラリア政府や教会によって家族から引き離されたオーストラリア・アボリジニとトレス・ストレイト島の混血の子供たちを指すために用いられる言葉である。1869年から公式的には1969年までの間、様々な政府の政策の下、アボリジニの親権は否定され、アボリジニの子供たちは政府の拘束下におかれた。その政策は主に、子供たちを収容所や孤児院などの施設に送ることであった。「盗まれた世代」は、1997年に刊行された「Bringing Them Home」によって、オーストラリアで一般的に注目されるようになった。「盗まれた世代」の問題が実際にあったのか、またどの程度の規模だったのかは、いまだに議論が続けられている。
== 児童隔離政策の開始 ==
アボリジニの子供たちを両親から隔離する政策は、「純血の」アボリジニは種を維持することが不可能であり絶滅は不可避であるという、19世紀後半から20世紀前半にかけて唱えられた[[優生学]]思想に基づいて行われた。その当時採用されたイデオロギーにおいては、人類は文明的な階層によって区分することができると考えられていた。ここでは、北ヨーロッパ人は文明のレベルにおいて優れており、アボリジニは比較的に劣っていると仮定されていた。この種の思想の極端な支持者たちは、混血の子供たちが増加することは人種の純潔への脅威であると考えた。
児童隔離政策導入の最も古い記録は、「アボリジニ保護法 1869年」である。アボリジニ保護中央委員会は1860年からこの法を提唱していた。この法にはヴィクトリア朝の植民地におけるアボリジニと「混血」の人々への支配の権限が記されており、その中には子供たち、特に「危機的な」少女たちの強制的な隔離が含まれていた。
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評論家のなかには、これらの法律の一部は、保護を放棄されたり、虐待を受けたり、捨てられた子供の児童たちの保護のために成立したと主張する者もいる。彼らは、混血の子供たちはいくつかのアボリジニのコミュニティーにおいては歓迎されなかったと主張している。1920年代、ボールドウィン・スペンサー報告によると、ガーン鉄道の建設の間に生まれた混血の子供たちは幼いうちに遺棄された。これらの出来事により、政府はこのような子供たちを保護するための政策を行うようになった。
== 脚註 ==
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== 関連項目 ==
*[[アパルトヘイト]]
*[[白豪主義]]
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*[[帝国主義]]
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[[Category:オーストラリアの歴史|ぬすまれたせだい]]
[[Category:人種差別|ぬすまれたせだい]]
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