「平泉澄」の版間の差分

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Juqi Gui (会話 | 投稿記録)
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[[1930年]](昭和5年)3月、欧米に外遊するため横浜港を出港。歴史研究法の追求と大学の史学研究室の在り方、[[フランス革命]]の研究を目的とした。[[ドイツ]]では[[ハインリッヒ・リッケルト]]や[[ベネデット・クローチェ]]を訪ね、[[フランス]]ではフランス革命の研究、[[イギリス]]では、[[エドマンド・バーク]]の思想研究や、[[エドマンド・ブランデン]]を訪ねた。
 
[[1931年]](昭和6年)7月、外遊の期間を短縮して帰国。帰国後、日本中世社会の研究よりも、日本精神や近世の[[勤王|勤皇]]思想家、[[建武の新政|建武中興]]の研究に力を注ぐようになった。あわせて、当時の東大国史学科を支配していた左翼的史学を一掃すべく、学生の教化にも力を注いだ。それは、平泉が東大で担当した講義にもあらわれるようになり、例えば、[[1932年]](昭和7年)度の中世史の講義では、水戸学の思想を講じ、翌[[1933年]](昭和8年)度には建武中興、[[1934年]](昭和9年)に至ってはフランス革命史を講じたのであった。また、1932年に東京帝大内に結成された学生団体「朱光会」の会長に就任し、1933年4月には、私塾「青々塾」を開いた。平泉は学生の教化の場を、学内のみならず学外にも求めた。
 
左翼学生運動抑制の対策のため、[[文部省]]は1930年に、高等学校に対して特別講義制度を設けた。欧米外遊後の平泉は直ちにその学生の思想教導に携わり、特別講師として、全国の高等学校や専門学校で「日本精神の復活」や「[[神皇正統記]]と日本精神」などと題する講義を行った。