「天璋院」の版間の差分

m
編集の要約なし
m
 
== エピソード ==
*嘉永7年([[1854年]])11月に、既に大石寺に帰依していた南部[[八戸藩]]主・[[南部信順]]([[島津氏]]出身)の強い勧めにより養父・斉彬と共に現在の[[日蓮正宗]][[総本山]][[大石寺]]に帰依し、同塔中[[遠信坊]]再々興に貢献した。また家定の死後には[[万延]]元年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]~[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]([[1860年]][[4月5日]]~[[5月25日]])までの51日間、大石寺法主・[[日英 (富士門流)|日英]]をして1日12時間(4時間×3回)の唱題祈念を行っている<Ref>「前の大将軍温恭院様の御台様、当天璋院様御事、各の兼ねて伺い及ばるる通り、其の実は薩州齊彬公(=鹿児島藩11代藩主)の姫君にして、御幼名篤姫君と称し奉り、此の御方不思議の御因縁にて当門流御帰依遊ばされ、八ヶ年以来、江戸御下関の節、京都に於て近衛様の御養女と成らせられて、薩州芝の御館に着御之有り、而して前の将軍様へ御婚姻相調はせられ、去る辰の年(=安政3年)十一月、渋谷の御館より直ちに御台様にて御本丸へ御輿入れ相済み為され、四海波静かにて比翼連理の御契り浅からず、御威勢に在す処、如何の御因縁にや一昨年将軍様には御急病にて御他界遊ばされ、誠に御台様の御愁歎言語に尽くし奉り難く、若君様には御幼年に入り為され、彼れ是れ以て御尊労の中に、去年御炎上の後も何角と御心掛かりの御事共も在らせられ、之に依り当春三月、厳しく御祈祷申し上ぐべき旨仰せを蒙り、三月十四日より閏三月及び四月五日に至り、都合五十一日、朝は暁七つ(=午前4時ごろ)より五つ時(=午前8時ごろ)迄、昼は九つ時(=正午ごろ)より夕七つ(=午後4時)頃迄、夜は六つ時(=午後6時ごろ)より四つ時(=午後10時ごろ)迄、弥よ丹誠を抽し、必至の御祈念申し上げる処に、不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り、御互いに有り難き事にあらずや」(日英筆 『時々興記留』より抜粋)</ref>。
*愛犬家であり、結婚前には[[狆]]を多数飼っていた。しかし、夫・家定が大の犬嫌いだったために大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていた。その猫を世話をしていたのは、天璋院と共に大奥を統轄していた御年寄・[[瀧山]]の姪・大岡ませ子である(参考『花葵-徳川邸おもいでばなし』ISBN 4620312347)。
 
4,398

回編集