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== 生涯 ==
イタリアの[[マチェラータ]]出身のリッチは、イエズス会に入会後インドでの[[宣教]]を志して[[1578年]]に[[ゴア州|ゴア]]に派遣された。その後、[[マカオ]]に滞在していた[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]][[神父]]の招きに応じて[[1582年]]に同地へ赴き、中国宣教団の一員となるべくそこで[[中国語]][[中国]][[文化]]を学んだ。
 
中国南部の[[都市]]を転々としながら、ヴァリニャーノの示した適応政策(アジア人を野蛮人と見てヨーロッパ式を押し付けるのでなく現地の文化を尊重するという姿勢)にしたがって中国の儒者の[[]]を着て中国式の[[生活]]をして中国文化の研究に励んだ。やがて彼の学識、特に[[科学]]知識が有名になるにしたがって、徐々に入門者が増え、[[1598年]]についに[[北京]]にたどりついたが、[[豊臣秀吉]]の[[朝鮮出兵]]のあおりを受けて[[南京]]へ移り、[[1601年]]に再び北京入りして高級官吏の紹介を受けて[[万暦帝]]の宮廷に入ることに成功した。リッチは順応政策を実践し、中国名を利瑪竇(りまとう)と名乗り、ラテン語[[デウス]](神)の漢語訳として「天帝」を用いた。また、[[キリスト教]]を真に中国文化と適応させるため、中国人の祖先崇拝の習慣を受け入れた(これが後に[[典礼論争]]として論議を生み、結果的に中国におけるキリスト教の禁止にいたることになる)。
 
[[Image:Ricci1600.jpg|thumb|left|200px|『坤輿万国全図』]]
リッチは東西文化の架け橋となった。中国で、キリスト教の教えを説いた『天主実義』([[1595年]])、世界地図である『[[坤輿万国全図]]』([[1602年]])、[[ユークリッド幾何学]]の中国語訳である『幾何原本』([[1607年]])などを刊行し、その文化に多大な影響を与えると同時に、中国文化をヨーロッパ社会へ好意的に紹介しつづけた。当時、[[ヨーロッパ]][[大学]]ではオラーレと呼ばれる口答試問が主流であったが、リッチらの伝えた中国の[[科挙]]制度[[筆記試験]]を普及させていく契機になったと考える向きもある。また、『坤輿万国全図』が日本に伝わっていることからもわかるように、彼のもたらした新知識の多くは漢語に訳されたおかげで日本へも影響を与えることになった。
 
[[Image:旋转 DSCN1806.JPG|thumb|墓碑]]
中国文化に精通し、人格者であったリッチは中国知識階級に影響を及ぼし、『農政全書』を著した[[徐光啓]]や李之藻といった多くの知識人が[[キリスト教徒]]となった。彼は[[1610年]]に北京で死去し、万暦帝によって阜成門外にその[[]]が作られた。彼の業績と順応政策は[[アダム・シャル]](湯若望)、[[フェルディナント・フェルビースト]](南懐仁)、[[ヨアヒム・ブーヴェ]](白進、白晋)[[レジス]](雷孝思)、[[ジュゼッペ・カスティリオーネ]](郎世寧)といった明・清の皇帝たちに仕えたイエズス会宣教師たちに引き継がれていく。
 
アメリカ合衆国の雑誌『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』は第二千年紀(1000年 - 1999年)のもっとも偉大な百人の一人としてマテオ・リッチを選んでいる。