「全国保険医団体連合会」の版間の差分

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===保団連の結成(1960年代)===
====全国保険医団体連絡会の成立====
 [[日本医師会]](以下、日医)の会長に[[武見太郎]]が就任すると、彼の方針に反発する開業医たちが保険医協会に結集し始めた。1961(昭和36)年1月、日医は「[[医療危機]]突破闘争総本部」を設置し、保険医総辞退の構えを持って[[自民党]]首脳に対し診療報酬の引き上げを迫った。しかし、武見

日医会長武見及び河村[[日歯]]会長河村と[[田中角栄]][[自由民主党 (日本)|自民党]][[政調会長]][[灘尾弘吉田中角栄]]厚生大臣(当時)[[灘尾弘吉]]との間に妥協が成立し、僅かな引き上げに終わった。これに不満を持った開業医がさまざまな「保険医団体」を結成し、また保険医協会に加入した。これらの諸所の「保険医団体」「保険医協会」「保険医会」の横の連絡を持つための組織として、同年1010月に「関西保険医団体連絡会」が結成され、これが1962年の「全国保険医団体連絡会」(保団連、以下 連絡会)へと発展した。
 
====全国保険医団体連合会の結成====
 連絡会は、各保険医協会・保険医会が持ち回りで「連絡会」や「責任委員会」を開催するという緩やかな組織形態であったが、1967年の「健保特例法阻止運動」を契機に全国の運動を束ねる中央組織が必要であるという気運が高まり、1969年1月26日に、東京、神奈川、愛知、京都、大阪、福岡の一都二府三県の六協会・個人会員あわせて10,116名で'''全国保険医団体連合会'''(初代会長・中野信夫)が結成された。