「アリー・イブン・アビー・ターリブ」の版間の差分

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==概説==
[[預言者]][[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の父方の従弟で、彼の母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となりムハンマドの娘[[ファーティマ]]を娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフの[[ウスマーン・イブン=アッファーン|ウスマーン]]が暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗勢力との戦いに追われ、[[661年]]に[[暗殺]]されてしまった。
 
のちにアリーの支持派は[[シーア派]]となり、アリーはシーア派によって初代[[イマーム]]としてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子[[ハサン・イブン・アリー|ハサン]]と[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]はそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとっても[[サイイド]]として尊崇されている。
 
アリーの墓廟は[[イラク]]の[[ナジャフ]]にあり、[[カルバラー]]とともにシーア派の重要な聖地となっている。
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==生涯==
===生い立ち===
アリーは[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者ムハンマド]]同様、[[ッカ]](メッカ)の[[クライシュ族]]の[[ハーシム家]]に属す。祖父はムハンマドと同じく[[アブドゥル=ムッタリブ]]で、父の[[アブー・ターリブ]]はムハンマドの父アブドゥッラーの同母弟である。つまり、アリーはムハンマドの父方の従弟にあたる。また母もムハンマドの祖父の姪であった。
 
アリーは[[西暦]][[600年]]ないし[[602年]]頃に[[ッカ]](ッカ)で誕生した。場所は父アブー・ターリブの家であったという説と、[[カアバ神殿]]内であったという説がある。日付はラジャブ月(イスラーム暦の7月)の13日と伝えられる。伝承によれば母のファーティマ・ビント・アサドは初め彼の名を「ハイダラ」(獅子)と名づけようとしたが、父のアブー・ターリブがそれを退けて「アリー」(高貴な人)という名をつけたとされる。また別伝によれば、ファーティマは「ハイダラ」、アブー・ターリブは「ザイド」という名を考えていたが、誕生を祝いに訪れたムハンマドが「アリー」と命名したという。
 
アリーが5歳のときにアブー・ターリブ一家が窮乏に陥ったため、彼はムハンマドと[[ハディージャ]]の夫婦に引き取られて[[養子]]として育てられることになった。
 
===青年時代===
[[610年]]頃にムハンマドは[[アッラー]]の[[啓示]]をはじめて受けたという。このときアリーは、ムハンマドの妻ハディージャに次ぐ2番目の信者としてイスラームを受け入れたとされる。以後アリーはムハンマドとともにイスラームの布教につとめるが、ムスリムたちは度重なるッカ市民の迫害により、[[622年]]にメディナ([[マディーナ]](メディナ)への亡命([[ヒジュラ]])を強いられる。
 
ムハンマドがッカを出発する頃にはすでに事態は切迫しており、反対派は彼の殺害計画を練っていた。アリーはムハンマドがッカを脱出した夜、刺客を欺くために彼の身代わりとしてムハンマドの寝床に横たわった。やがて暗殺者たちが現われたが、彼らはムハンマドの不在を知ると失望し、アリーに危害を加えることもなく去った。アリーはムハンマドの指示によって、その後なお3日間にわたってッカにとどまり、ムハンマドが知人から預かっていた金をすべて精算してからディナへ向かったという。
 
ヒジュラ後、アリーはムハンマドの片腕として教団の運営や[[ジハード]](聖戦)に携わった。とくに戦場における活躍は目覚しく、アリーは[[バドルの戦い]]、[[ウフドの戦い]]、[[ハンダクの戦い]]で次々に敵側の名高い勇士を倒し、ハイバルの戦いではイスラーム軍の誰も陥すことができなかったハイバル砦を陥落させるなど、勇将としての名声を次第に高めていった。
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===正統カリフたちの時代===
[[アラビア半島]]のアラブ人の統一を達成した[[アブー=バクル]]は[[634年]]に病死し、ムハンマドの妻の1人[[ハフサ]]の父[[ウマル・イブン=ハッターブ|ウマル]]が後継者に指名された。ウマルは中央集権的な[[イスラム帝国]]を築き上げ、[[642年]]の[[ニハーヴァンドの戦い]]で[[サーサーン朝]]を滅亡寸前に追い込んだが、[[644年]]に[[奴隷]]に刺されて重傷を負い、死の床に有力者を集めて後継者を選ばせ、絶命した。このときの後継候補にはアリーも含まれていたが、後継カリフに選出されたのは、ムハンマドの2人の娘[[ルカイヤ]]とウンム・クルスームを妻としていた[[ウスマーン・イブン=アッファーン|ウスマーン]]であった。ウスマーンは、[[650年]]頃に[[クルアーン]](コーラン)の正典(ウスマーン版)を選ばせ、[[651年]]にサーサーン朝を完全に滅亡させるといった功績を挙げた。アブー=バクル、ウマル、ウスマーンと、その次にカリフとなったアリーの4代を、[[正統カリフ]]という。
 
===ウスマーンの死とアリーのカリフ就任===
ウスマーンはしかし、自己の家系であるウマイヤ家を重視する政策を採ったため、[[クライシュ族]]の他の家系の反発を招き、[[656年]]に[[暗殺]]された。次のカリフ位をめぐって、ムハンマドの従弟にして娘婿のアリーと、ウスマーンと同じウマイヤ家の[[ムアーウィヤ]]が争った。曲折を経て、アリーが第4代のカリフに就任した。
 
===ムアーウィヤとの対立===
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===アリーの最期===
ムアーウィヤは刺客の手から逃れ、一方アリーは[[661年]]に暗殺された。正統カリフ4代のうち実に3代までが暗殺されたことになる。アリーの暗殺によりムアーウィヤは単独のカリフとなり、自己の家系によるカリフ位の[[世襲]]を宣言し、[[ウマイヤ朝]]を開くことになる。これに反発て、アリーの支持者は、アリーとムハンマドの娘ファーティマとの子[[ハサン・イブン・アリー|ハサン]]と[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]およびその子孫のみが指導者たりうると考え、彼らを無謬の[[イマーム]]と仰いで[[シーア派]]を形成していく。これに対して、ウマイヤ朝の権威を認めた多数派は、後世[[スンナ派]](スンニ派)と呼ばれるようになる。
 
==年譜==
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* 中田考(監修)、中田香織(翻訳)『タフスィール・アル=ジャラーライン(ジャラーラインのクルアーン注釈)』全3巻 日本サウディアラビア協会、2004-2007年。
* 牧野信也訳『ハディース イスラーム伝承集成』全3巻 中央公論社、1993-1994年。(文庫版 全6巻 中央文庫 中央公論新社、2001年)*[[ブハーリー]]の[[ハディース]]集成書『真正集』の完訳。
 
 
* ズィーバ・ミール=ホセイニー著、山岸智子他訳、『イスラームとジェンダー-現代イランの宗教論争』明石書店、2004年