「武田耕雲斎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m DEFAULTSORT
7行目:
 
== 経歴 ==
名は正生。通称は彦九郎。号は如雲。水戸藩士・[[跡部正続]]の子として生まれ、[[跡部正房]](跡部家の宗家)の養嗣子となった。[[1817年]]([[文化 (元号)|文化]]14年)、300石の家督を継ぐと同時に武田氏に改姓。[[戸田忠太夫]]、[[藤田東湖]]と並び'''水戸の三田'''と称される。
 
[[徳川斉昭]]の藩主擁立に尽力した功績などから、[[1840年]]([[天保]]11年)には参政に任じられ、水戸藩の藩政に参与した。しかし[[1844年]]([[弘化]]元年)、斉昭が幕府から隠居謹慎処分を命じられると、これに猛反対したため、耕雲斎も連座で謹慎となった。[[1849年]]([[嘉永]]2年)、斉昭の復帰に伴って再び藩政に参与し、[[1856年]]([[安政]]3年)には執政に任じられた。そして、斉昭の[[尊皇攘夷]]運動を支持し、斉昭の藩政を支えた。
 
しかし[[1860年]]、斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎も藩政から遠ざけられた。耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか、[[1864年]](慶応元年)には[[藤田小四郎]]([[藤田東湖]]の四男)が天狗党を率いて挙兵してしまう。耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請する。耕雲斎は初め拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。
 
天狗党は、斉昭の子で当時は[[京都]]にいた[[徳川慶喜]]を新たな水戸藩主に据えることを目的としていた。そして、800名の将兵を率いて[[中山道]]を進軍したが、[[敦賀市|敦賀]](越前国新保)で幕府軍の追討を受けて降伏した。降伏すると、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬り殺された。[[享年]]63。その後、妻・2人の子・3人の孫も斬り殺された。
38行目:
*[[朝倉源太郎]]
 
[[Category{{DEFAULTSORT:幕末維新側人物|たけた こううんさい]]}}
[[Category:茨城県の歴史|たけたこううんさい幕末維新側人物]]
[[Category:茨城県の歴史]]
[[Category:武田氏|こううんさい]]
[[Category:1803年生|たけたこううんさい]]
[[Category:1865年没|たけたこううんさい]]