「孝明天皇」の版間の差分

[[1853年]]([[嘉永]]6年)の[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航以来、幕府政治に発言力を持ち、[[江戸幕府]]大老[[井伊直弼]]が諸外国と独断で条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷さえ表明したこともあった。孝明天皇は攘夷の意思が激しく、妹・[[和宮親子内親王]]を第14代[[征夷大将軍]]・[[徳川家茂]]に嫁がせるなど、[[公武合体]]運動を推進し、あくまで[[鎖国]]を望んだ。家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために[[賀茂神社]]や[[石清水八幡宮]]に行幸している。[[京都守護職]]であった[[会津]]藩主[[松平容保]]への信任は特に厚かったといわれる。
 
しかし[[1865年]](慶応元年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にあると見た諸外国海軍は艦隊を[[大坂湾]]に入れて天皇に条約の勅許を要求して、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許が出される事となった。だが、この年には[[医学|西洋医学]]の禁止を命じる(実際には宮中のみに留まった)などの保守的な姿勢は崩さなかった。その翌1866年(慶応2年)12月25日、義弟・家茂の後を追うように、在位21年にして[[崩御]]。享年35。死因は[[天然痘]]と診断された。
 
=== 暗殺説 ===
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