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[[Image:and00278.png|right|thumb|アドルフ・アンデルセン]]
'''アドルフ・アンデルセン'''(Karl Ernst Adolf Anderssen, [[1818年]][[7月6日]] - [[1879年]][[3月13日]])は[[ドイツ]]の[[チェス]]選手で[[数学]]の教師。1851年から1858年まで、そして1862年から1866年まで非公式ながら[[チェスの世界チャンピオン一覧|世界チャンピオン]]であったとされている
 
当時[[プロイセン王国]]領、現在は[[ポーランド]]の都市ブレスラウ(現[[ヴロツワフ]])に生まれる。公立[[ギムナジウム]]を卒業後、同地の大学[[数学]]と[[哲学]]を学んだ。1845年にブレスラウ大学を卒業後、フリードリッヒ・ギムナジウムで数学教師に、後にブレスラウ大学の数学教授になった。1847年、[[ポモージェ|ポは生涯結婚せず、母親や姉妹]]で家庭教師支えてい務めた。
 
アンデルセンは生涯結婚せず、未亡人である母親、妹の暮らしを支えていた。
アンデルセンは9歳の時に父親からチェスを教わり始めるが、なかなか上達しなかった。1842年にチェス・プロブレムの本“Aufgaben fur Schachspieler”を出版し、初めてチェスに目覚めた。
 
アンデルセンは9歳の時に父親からチェスを教わり始めるったが、なかなか上達しなかった。1842年にチェス・プロブレムの本“Aufgaben fur Schachspieler”を出版し、初めてチェス界で注覚めされた。
1845年にブレスラウ大学を卒業後、フリードリッヒ・ギムナジウムで数学教師に、後にブレスラウ大学の数学教授になった。1847年、[[ポモージェ|ポンメルン]]で家庭教師を務めた。
 
18581848年に[[パリ]]で[[ポは職業プレイヤル・モのハー]]ッツとマッチを行ない、引き分けた。これ敗北し1862よって1851年に[[ロンドン]]で開かれた史上初国際大会にドイツ代表として招待され優勝した。唯一[[ジョン・オこの時期、1851年の対キゼリツキウェ戦(The Immortal Game)、1852年の対デューフレ]]に負けただけだった戦(The Evergreen Game)の2局が著名局として知られている
 
1858年に[[パリ]]で[[ポール・モーフィー]]とのマッチに2勝2分7敗で敗北した。しかしモーフィー引退後の1862年には[[ロンドン]]での国際大会に参加、12勝1敗の好成績で優勝し、再び世界チャンピオンと目されるようになった。
1866年、[[ヴィルヘルム・シュタイニッツ]]と対戦、この時のアンデルセンの様子をシュタイニッツはこう書いている。「アンデルセンは正直者で、尊敬されるべき人物である。公平な考えを持っていた。時に対戦相手の為になることもした」
 
1866年、若き[[ヴィルヘルム・シュタイニッツ]]とマッチを行ない、6対8の僅差で敗れた。この時点から世界最強の座をシュタイニッツに譲ったとされている。しかし1868年、バーデンバーデンでの国際大会ではシュタイニッツを半点抑えて優勝した。1877年、59歳の時に[[ライプツィヒ]]大会で2位に入賞、これを棋歴の最後として2年後に死去した。
1877年、[[ライプツィヒ]]で最後の勝利を収め、その2年後に59歳で死去した。
 
アンデルセンはおおむね人に好かれ、きわめて正直な人間とされていた。シュタイニッツはこう書いている。「アンデルセンはまったく正直で、名誉を重んじる人物である。誰に遠慮することもひいきすることもなく、堂々と自分の意見を述べた。その公正さは有名で……彼が口を開けばたいていのもめごとは収まった……時には自分のライバルに有利な判断を下すこともあったからである」
 
アンデルセンの名は、[[ポール・モーフィー|モーフィー]]との対戦で指された奇妙な1手(1. a3)の定跡名にも残されている。