「近衛文麿」の版間の差分

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[[総理大臣官邸|官邸]]の喧噪とはうってかわって静寂な荻外荘のたたずまいを、近衛は政治の場としても活用した。「東亜新秩序」の建設を確認した昭和15年7月19日の「荻窪会談」や、対米戦争の是非とその対応についてを協議した昭和16年10月15日の「荻外荘会談」などの特別な協議はもとより、時には定例会合の[[五相会議]]までをも荻外荘で開いており、[[第二次世界大戦|大戦]]前夜の重要な国策の多くがここで決定されている。昭和16年9月末に近衛から対米戦に対する海軍の見通しを訊かれた[[連合艦隊司令長官]]の[[山本五十六]]が、「是非やれと言われれば初めの半年や一年は随分と暴れてご覧に入れます。しかし、二年、三年となれば、全く確信は持てません」という有名な回答で近衛を悩ませたのも、この荻外荘においてであった。
 
こうした変則的な政治手法から「荻外荘」の三文字が新聞の紙面に踊る日は多く、この私邸の名称は日本の隅々にまで知れ渡るようになった。後には[[吉田茂]]の「[[東京都庭園美術館|目黒の公邸]]」、[[鳩山一郎]]の「[[鳩山会館|音羽御殿]]」、[[田中角榮]]の「[[田中角榮#人間関係|目白御殿]]」などがやはり同じように第二の官邸のような機能をもつが、その先例はこの荻外荘に求めることができる<ref>偶然だが、吉田茂は近衛の死後この荻外荘を一時期私邸の代わりとして近衛家から借りて私邸代わりにしていたことがある。あるとき来客から「なぜまたこちらに」と聞かれた吉田は、「ここにぼくが寝ていたらそのうち近衛が出てくるだろうと思ってね」と平然と言ってのけたという。</ref>。
 
荻窪一帯は空襲を免れたため、荻外荘は現在でも近衛が自らの命を絶った日とさほど変らない姿をこの地に留めている。現在でも近衛家の私有地なので内部の見学はできないが、歴史の重みに満ちたその片鱗は塀の外からでも十分に垣間見ることができる。
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