「ローマ字論」の版間の差分

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== ローマ字推進団体 ==
上記のような主張は[[明治時代]]初頭からあり、南部義寿籌(よしかず)が明治2年「修国語論」を大学頭[[山内容堂]]に、明治4年8月[[文部卿]]に建白し、明治5年4月文部卿に「文字ヲ改称スルの議」を建白したが、いれられなかった。明治7年[[西周]]が「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」をたててローマ字国字論をとなえたがこれもいれられなかった。
 
ローマ字を推進する団体として[[矢田部良吉]][[外山正一]]その他によって「羅馬字会」(ろーまじかい)が[[1885年]](明治18年)創立された。ふたりのほかに、[[山川健次郎]][[北尾次郎]][[寺尾寿]][[松井直吉]][[隈本有尚]]が創立委員であった。明治20年ころには会員は7000をこえ、20年4月ローマ字書きの綱領が決定され、6月機関誌として Romaji「Rōmaji Zassi が月刊された。

羅馬字会はローマ字綴りとして[[ヘボン式ローマ字]]を採用したが、会員の一人で物理学者の[[田中館愛橘]]が、[[五十音図]]に基づくローマ字綴り(のちの「[[日本式ローマ字]]」)を提案。結局しかし会では採用に至らず、田中館は羅馬字会を離れた。ヘボン式と日本式との長い対立は、ここから始まっている。
 
[[1905年]](明治38年)、ローマ字論者の大同団結を図る組織として「[[ローマ字ひろめ会]]」(RHK)ができ、綴りは会員各人の自由とされた。しかしその後、会としてヘボン式を採用。日本式論者は離れ、[[1921年]](大正10年)「[[日本ローマ字会]]」を組織した。