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m 連合国軍最高司令官総司令部|
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[[Image:大山巌像 cropped.jpg|thumb|200px|東京・九段坂公園の大山巌像
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<small>第二次世界戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の指令で軍人の銅像が軍国主義の象徴として次々と鋳潰されるなか、軍装で馬にまたがったりりしい姿の大山像は破却を免れた。そこには連合国軍最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]の差し金があったことはあまり知られていない。マッカーサーにとって大山巌は[[ナポレオン]]とならぶ英雄で、かねてよりその肖像画を自宅の書斎に飾るほど崇拝していたという。</small>]]
*[[西南戦争]]では政府軍の指揮官として親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、<!--による精神的ダメージから、以後、政治から距離を置くきっかけとなったと言われている(戦争後から寡黙になった)。また、-->二度と鹿児島に帰る事はなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に[[西郷従道]]とは親戚以上の盟友関係にあった。
*大山は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。これは薩摩に伝統的な総大将のスタイルであったと考えられる。[[日露戦争]][[沙河会戦]]で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「[[兒玉源太郎|兒玉]]さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話がある。ただし俊異の性格は日露戦争中も残っており、兒玉が旅順に[[第3軍 (日本軍)|第三軍]]督励のため出張している間は、大山が自ら参謀会議を主宰し、積極的に報告を求め作戦を指揮したという公式記録が残っている。