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== 概要 ==
聚楽第は[[関白]]に就任しなった秀吉の政庁兼邸宅として[[1586年]]([[天正]]14年)2月に着工され、翌年9月には完成。[[九州征伐]]を終えた秀吉が[[大坂]]より移り、ここで政務を執った。[[1588年]][[5月9日]](天正16年[[4月14日 (旧暦)|4月14日]])には[[後陽成天皇]]の行幸を迎えて饗応している。また[[天正少年使節]]や[[徳川家康]]との謁見もここで行われた。
 
は瓦に金箔を貼るなど大変贅沢なものだったという。「第」(= 邸)とあるが、[[天守]]を持つ本丸を中心に二の丸などの曲輪を持ち、堀を巡らしており、平城としての性格も備えていた。邸内には[[千利休]]の屋敷も作られ、1587年10月には近くの北野神社社頭において[[北野大茶会]]が催された。
 
[[1591年]]12月に秀吉が関白職を退き、甥の[[豊臣秀次]]へ譲られると、聚楽第も秀次のものとなり、再び後陽成帝の天皇が行幸が行われる。秀吉は94年に[[伏見城]]の築城に着手し、[[1595年]]に秀次が失脚し切腹させられると聚楽第も取り壊され、建物の大部分は伏見城へ移築された。<!--なお、御所に参内するための利便上、新たな豊臣家の京屋敷を建設する必要に迫られ、現在の仙洞御所の地に代替の邸宅が設けられたともいう。--><!-- ?? -->
 
==名称==
聚楽第は瓦に金箔を貼るなど大変贅沢なものだったという。邸宅であるが、[[天守]]を持つ本丸を中心に二の丸などの曲輪を持ち、堀を巡らしており、平城としての性格も備えていた。[[西本願寺]]の[[飛雲閣]]や、[[大徳寺]]の唐門、[[妙覚寺 (京都市)|妙覚寺]]の大門、[[妙心寺]]播桃院玄関など、聚楽第から移築された建物という伝承を持つ建造物がある。<!---建築史的に聚楽第の遺構と確認された建造物はない。--->
聚楽第は、建造中は「内野御構」<small>(うちのおかまい)</small>と呼ばれていたことが知られており、その初見は『[[多聞院日記]]』天正14年2月27日の条にある「去廿一日ヨリ內野御構普請」。「聚楽」の名が使われ始めるのは九州征伐から帰還した後のことである。
 
「聚楽」という名の名の由来については、秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた『[[天正記]]』のひとつ『聚楽第行幸記』に「長生不老の樂を聚<small>(あつ)</small>むるものなり」とある。これ以外に「聚楽」の出典が見いだせないことから、史家のあいだではこれが秀吉の造語によるものだとする見方が一般的となっている。
 
==現在==
聚楽第は瓦に金箔を貼るなど大変贅沢なものだったという。邸宅であるが、[[天守]]を持つ本丸を中心に二の丸などの曲輪を持ち、堀を巡らしており、平城としての性格も備えていた。[[西本願寺]]の[[飛雲閣]]や、[[大徳寺]]の唐門、[[妙覚寺 (京都市)|妙覚寺]]の大門、[[妙心寺]]播桃院玄関など、聚楽第から移築された建物という伝承を持つ建造物がある。<!---建築史的に聚楽第の遺構と確認された建造物はない。--->
 
現在は地形にわずかに痕跡をとどめる程度でこれといった遺構は残されていない。かろうじて「梅雨の井」跡と伝える史跡が[[松屋町通]][[下長者町通|下長者町]]上ル東入ル東堀町内にあるが聚楽第遺構との確証はない。また[[智恵光院通]][[出水通|出水通]]下ルの京都市出水老人デイサービスセンターの北向かい(分銅町)に加藤清正寄贈という庭石も残るがこれも確証はない。ただし、地名には、「須浜町」「須浜池町」「天秤丸町」「山里町」「北之御門町」「高台院町」「東堀町」などなお当時の名残を色濃く残している。また「如水町」「小寺町」「浮田町」「飛弾殿町」「田村備前町」「福島町」「中書町」「直家町」など秀吉騎下の武将の名を冠した地名も多く見られる。[[浄福寺通]][[中立売通|中立売]]の正親小学校北側に聚楽第跡の石碑が建っている。