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'''恭帝侗'''(きょうていとう、生年不詳 - [[619年]]、在位[[618年]]-619 - [[619]])は、[[中国]]の[[隋]]の皇帝。第二代皇帝であった[[煬帝]]の孫に当たる。姓は楊。名の侗は人偏に同。[[恭帝侑 (隋)|恭帝侑]]は仁謹。元徳太子[[楊タン|燕王倓]]の兄弟子。母は小劉良娣
 
[[607年]]、越王に立てられた。煬が巡幸前は越王の地位たびあり東都[[洛陽]]の守備(東都留守を任されていた。[[617613年]]頃から反、[[楊玄感]]の起こると、戸部尚書の樊子蓋とともに洛陽を守備た。乱が平定されると、東都留守のまま高陽郡太守に任じられた。[[617年]]、煬帝が江都に下ると、[[段達]]・[[元文都]]・韋津・[[皇甫無逸]]らとともに洛陽を守った。洛口倉に拠った[[李密 (隋)|李密]]がたびたび洛陽しばしば攻勢攻めてきた。西域出身のかけ、[[王世充]]らをこの軍勢と戦わせたり派遣して何とか一進一退を繰り返のいでいが、[[618年]]に祖父の煬帝が殺されると、隋の重臣たち段達らに擁立されて即位した。このとき元号を[[皇泰]]としたため、楊侗は'''皇泰主'''とも呼ば史称される。
 
段達が礼部尚書・右翊衛大将軍となり、王世充が吏部尚書・左翊衛大将軍となり、元文都が内史令・左驍衛大将軍となり、盧楚が内史令となり、皇甫無逸が兵部尚書・右武衛大将軍となり、郭文懿が内史侍郎となり、趙長文が黄門侍郎となって、朝廷を牛耳った。ときに洛陽の人々は段達らを「七貴」と称した。七貴のあいだは険悪で、元文都・盧楚・郭文懿・趙長文は王世充に殺害され、皇甫無逸は[[長安]]に逃れて[[唐]]に帰順した。
 
しかし、王世充が李密を破って実権を完全に掌握すると、[[619年]]には楊侗は邪魔者と為り、翌年に王世充に[[禅譲]]することを余儀なくされた上に、殺害されたのである。帝位についたとはいえ、[[李淵]]に禅譲した異母兄の[[恭帝侑 (隋)|恭帝侑]]とは異なり、後世からは正統な皇帝とされていない。
 
 
== 伝記資料 ==
* 『[[隋書]]』巻五十九 列伝第二十四「煬帝三男伝」
* 『[[北史]]』巻七十一 列伝第五十九「隋宗室諸王伝」
 
しかし、王世充が李密を破って実権を完全に掌握すると、楊侗は邪魔者と為り、翌年に王世充に[[禅譲]]することを余儀なくされた上で殺害されたのである。帝位についたとはいえ、[[李淵]]に禅譲した恭帝侑とは異なり、後世からは正統な皇帝とされていない。
 
== 参考文献 ==