「白田山秀敏」の版間の差分

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== 来歴 ==
地元・鏡町の中学校を卒業後、進学した[[八代第一高等学校]](現・[[秀岳館高等学校]])を僅か3ヶ月で中退して上京し、[[高砂部屋]]に入門。[[1959年]]7月場所にて初土俵を踏んだ。[[1968年]]1月、24歳で十両に昇進。軽量のため十両で苦労し、新十両から3年以上かかって[[1971年]]3月場所で漸く入幕を果たした。初土俵から11年8ヶ月を費やしての、悲願の新入幕であった。本来は左四つ相撲だが、軽量の体格を生かした土俵上を動き回る相撲や素早い左右への変化が得意だった。しかし幕内上位ではなかなか通じず、三役には昇進する事ができなかった。[[1975年]]7月場所を最後に幕内から陥落し、以降十両での土俵が続いた。西十両11枚目に在った[[1977年]]5月場所限り、33歳で現役を引退し、年寄・谷川を襲名。序ノ口から引退までの17年8ヶ月間で、1202回連続出場を記録した。これは序ノ口以来無休という連続出場では当時、大相撲史上1位の記録であった(その後、[[豊ノ海真二]]が1316回連続出場を果たし、白田山に替わって史上1位の記録保持者となる)。引退後暫くは高砂部屋の部屋付き親方として力士達を指導していたが、先代の谷川(元十両・八幡野)に倣って[[谷川部屋]]を興す事を師匠に反対され、一門の[[九重部屋]]に移った。この移籍は、現役時代から九重(元横綱・[[北の富士勝昭|北の富士]])と「手の合う」(仲の良い)仲だった事が影響している。現在は同じく一門の[[八角部屋]]に在籍し、後進の指導に当たっている。
 
== 主な戦績 ==