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'''ロバート・ロッセン'''('''Robert Rossen'''/本姓'''Rosen''' [[1908年]][[3月16日]] - [[1966年]][[2月18日]])は、[[アメリカ]]・[[ニューヨーク]]出身の[[映画監督]]・[[映画プロデューサー|製作者]]・[[脚本家]]。『[[オール・ザ・キングスメン]]』『[[ハスラー (映画)|ハスラー]]』で知られ、[[赤狩り]]([[マッカーシズム]])の時代に翻弄されつつも硬派の作品を撮り続けた。
 
== 来歴 ==
貧困家庭で育ち、[[ボクサー]]などの職を転々としつつ学費を稼いで[[ニューヨーク大学]]で学ぶ。卒業後、理想家肌の作風で[[ブロードウェイ]]の舞台演出家や脚本家として頭角を現す。この当時は[[アメリカ共産党]]員としても活動していた(1945年脱党)。1936年に[[ワーナー・ブラザーズ|ワーナー]]により[[ハリウッド]]へ招かれ、脚本家として映画界でのキャリアをスタートさせた。1947年に、自らの経験を活かし、[[ボクシング]]に題材を取った'''ボディ・アンド・ソウル/背信の王座'''で監督業に進出。2作目の'''[[オール・ザ・キングスメン]]'''」(1949』(1949)は批評的・興行的に成功し、第21回[[アカデミー賞]]でも本命視される。しかし授賞式直前に、彼が共産党員であった過去が[[非米活動委員会]]への召喚によって明らかとなり、ロッセン自身は[[アカデミー監督賞|監督賞]]や[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]を逃す結果となった。
 
== 赤狩り ==
オール・ザ・キングスメンは[[アカデミー作品賞|作品賞]]・[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]・[[アカデミー助演女優賞|助演女優賞]]を得て辛勝したが、これ以後ロッセンは自由な映画作りが不可能になる。1951年の非米活動委員会で証言を拒否した彼は、一旦映画界を追放された。苦悩の末に転向し、1953年の委員会では多数の党員の名を証言して以後の彼は、ニューヨークや[[ロンドン]]を映画作りの拠点として、二度とハリウッドには戻らなかった。
 
== 晩年 ==
彼が往時の勢いを今一度見せた作品が、1961年の'''[[ハスラー (映画)|ハスラー]]'''である。[[ポール・ニューマン]]や[[ジャッキー・グリーソン]]、[[ジョージ・C・スコット]]といった強面の俳優陣を配した男のドラマで本領を発揮したロッセンは、再びアカデミー賞の作品・監督・脚色賞にノミネートされた。
 
== 外部リンク ==
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