「小津正次郎」の版間の差分

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[[1980年]][[5月14日]]にブレイザー監督が辞任し、小津の推進した球団改革は現場レベルでは頓挫する形となった。[[中西太]]ヘッドコーチが監督に昇格したが、その年は掛布の故障もあって5位に終わる。[[1981年]]は3位と5年ぶりにAクラスを確保したが、中西監督の起用法に不満をもっていた江本が、降板後に「ベンチがアホ」と発言したとされて、引退。<ref>江本は著書の中で、「『ベンチがアホ』は自分が断片的に語った言葉を記者がそういう文章にしたもので、そうは言っていない」と記している。詳しくは[[江本孟紀#ベンチがアホ事件の真相|同項]]参照。</ref>
 
この年オフに中西監督は辞任し、[[安藤統男]]が監督となる。安藤監督の就任を機にユニフォームが一新され、伝統のスタイルと縞帽子が復活をとげた。[[1982年]]には[[山本和行]]のリリーフ転向で、11連勝(引分をはさむ)を記録するなどチームは絶好調。結果的には優勝した[[中日ドラゴンズ|中日]]と4.5ゲーム差の3位となったが、[[1983年]]には巨人の独走を許し4位に転落。小林繁の30歳での引退や、[[工藤一彦]]の故障もあって先発投手陣が弱体化した[[1984年]]も4位に終わる。安藤は契約が残っていたにも関わらず辞任。小津は最後の切り札として[[西本幸雄]]の監督招聘に取り組むも失敗し、[[10月23日]]に社長を辞任した。
 
後任の社長となった[[中埜肇]]([[1985年]][[8月12日]]の[[日本航空123便墜落事故|日航機墜落事故]]で死去)のもと、[[吉田義男]]が監督に就任し、結果的に21年ぶりのリーグ優勝、球団史上初の日本シリーズ制覇をなしとげるが、小津の残した功績も大きかったと言われる。