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[[摂政]][[関白]][[太政大臣]][[藤原忠通]]の長女、母は北政所従一位[[藤原宗子|宗子]](権大納言[[藤原宗通|宗通]]の娘)。忠通の嫡妻腹の子女は彼女ひとりである。
[[大治]]4年([[1129年]])崇徳天皇に入内して[[女御]]となり、同5年([[1130年]])中宮に冊立。時に父は摂政で、在任中の[[摂関]]の女の入内は、[[後冷泉天皇]]の[[皇后]][[藤原寛子|寛子]]以来、八十年ぶりのことであり、忠通は聖子の入内に[[摂関家]]再興の望みを託した。しかし、父の希望に反して、聖子は一人の子女も生まなかった。その代わり、[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]の皇子體仁
[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]には父忠通と夫崇徳上皇が敵に分かれて戦い、敗れた
父の没後は[[猶子]]としていた異母弟の[[九条兼実|兼実]]の後見を受けた。また[[治承]]4年([[1180年]])に兼実の嫡男[[九条良通|良通]]を
== 夫婦関係 ==
崇徳院は[[女房]][[崇徳院兵衛佐局|兵衛佐局]](法印信縁女で[[大蔵卿]][[源行宗]]の養女、[[重仁親王]]生母)を深く寵愛し、聖子とは疎遠であったという説があるが、これは的確でない。崇徳天皇の在位中、聖子は常に天皇と同殿しており、退位後も、しばしば上皇が聖子の御所へ[[御幸]]、もしくは聖子が上皇御所へ[[行啓]]している。保元の乱の後、崇徳院が讃岐へ配流になった際に兵衛佐局が同行したのに対し、皇嘉門院が同行せずに都に留まったのは、立場の相違に由来するものであって、寵愛の程度によるものではない。たとえば、後世の[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の配流に際しても、随行したのはそれほど身分が高くない女房で、院の寵愛篤い[[修明門院]]はお供していない。貴人の配流に際し、身の回りの世話をするために、近侍していた人々がお供をした。皇嘉門院のように、只今の[[女院]]、かつて天皇の正妃・母后として中宮・皇太后の尊位にあった女性は、上皇とほぼ同等の身位にあり、上皇に随侍する立場にない。女院は、同行しないというより、通例では同行できないのである。そして何よりも、讃岐への同行は関白の位にある父忠通が許さなかったに違いない。皇嘉門院は、忠通の嫡妻腹の一人娘で、忠通がその遷幸を傍観するはずがないのである(忠通は、摂関家の体面を粉々に潰した保元の乱において、辛うじて戦勝者となっている。忠通の後ろ盾によって、保元の乱以後も皇嘉門院は朝廷で尊重された)。
== 略歴 ==
* 保安3年(1122年) 生誕(父は関白忠通・母は北政所宗子)
* 大治3年([[1128年]]) 入内に先立ち[[従三位]]に叙階(11月9日)
* 大治4年(1129年) 崇徳天皇に入内(1月9日)、女御宣下(1月16日)
* 大治5年(1130年) 中宮(2月21日)
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