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[[1901年]](明治34年)[[10月15日]]、[[東京市]][[深川区]](現在の[[江東区]][[深川 (江東区)|深川]])に生まれる<ref name="井上">『日本映画監督全集』([[キネマ旬報社]]、1976年)の「井上金太郎」の項(p.51-52)を参照。同項執筆は[[木村威夫]]。</ref>。
 
東京府立第三中学校(現在の[[東京都立両国高等学校・附属中学校|東京都立両国高等学校]])を4年で中退、18歳の[[1920年]](大正9年)4月、私淑していた小説家[[谷崎潤一郎]]が文芸顧問に迎えられた映画会社「[[大正活動映画]]」(大活)が[[横浜市|横浜]]・[[山下町 (横浜市)|山下町]](現在の[[中区 (横浜市)|中区]][[元町 (横浜市)|元町]])に設立され、同社の俳優募集に応募して入社した<ref name="井上" />。同社設立第1作、[[トーマス・栗原]]監督の『[[アマチュア倶楽部]]』の脇役でデビュー、同作は[[11月19日]]に封切られた。同期の俳優に、のちの映画監督の[[内田吐夢]]や[[二川文太郎]]、[[横田豊秋]]、あるいは[[竹村信夫]]、高橋英一(のちの[[岡田時彦]])、[[江川宇礼雄]]、[[鈴木すみ子]]、[[渡辺篤]]らがいた。同社の撮影所には「[[浅草オペラ]]」で活躍した劇作家であり、浅草の「カフェ・パウリスタ」に集う[[アナキズム|アナキスト]]のひとりであった[[古海卓二|獏与太平]]も、妻で女優の[[紅沢葉子]]とともにいて、「梁山泊」の様相を呈していた<ref name="古海">『日本映画監督全集』([[キネマ旬報社]]、1976年)の「古海卓二」の項(p.350-362)を参照。同項執筆は[[竹中労]]。</ref>。
 
[[1921年]](大正10年)9月、大活が撮影所を一時閉鎖、製作を休止すると、獏に率いられ<ref name="古海" />、仲間とともに京都入りし、同年6月に[[牧野省三]]が[[日活]]から独立して設立した「[[牧野教育映画製作所]]」の「等持院撮影所」の9月完成と同時に仲間とそろって入社した。同年の『一太郎やあい』の主演俳優から出演を開始した<ref name="井上" />。同社は徐々に教育映画からエンタテインメント映画にシフトし、いくつかの映画に主演した井上も監督を志望し、牧野の助監督となった。[[1923年]](大正12年)[[4月1日]]、同社は「[[マキノ映画製作所]]」に改組され、井上は同年[[7月9日]]公開の映画『立派な父』で監督として21歳でデビューした。当時のマキノには俳優から転向した監督[[衣笠貞之助]]がおり、横浜以来の俳優仲間の二川も井上の翌月に監督としてデビューした。