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== 略歴 ==
映写技師だった父親の推薦で十代でイタリアの国立映画学校に入学し、映画撮影を学ぶ。卒業後はキャメラ・オペレーターや舞台照明の仕事を経験し、1964年に撮影に参加した[[革命前夜]]で[[ベルナルド・ベルトルッチ]]と知り合い、親交を結ぶ。
 
その後、ベルトルッチとコンビを組むようになり、1970年に発表された[[暗殺の森]]では、芸術的な色彩感覚と若手ながらも完成された撮影スタイルにより脚光を浴び、監督であるベルトルッチと共に注目を集める。
 
以後、[[ラスト・タンゴ・イン・パリ]][[1900年 (映画)|1900年]]などベルトルッチとの名コンビぶりを発揮し、70年代後半にはアメリカ映画界にも進出、[[フランシス・フォード・コッポラ]]監督[[地獄の黙示録]]、[[ウォーレン・ベイティ]]監督[[レッズ (映画)|レッズ]]、また再びベルトルッチと組んだ[[ラストエンペラー]]で[[アカデミー撮影賞]]撮影賞を3度も受賞し、名実共にトップキャメラマンとして活躍している。
 
「光で描く」「色は象徴である」と公言する通り、照明にはかなりの哲学を持っており、その圧倒的な色彩感覚は多くのカメラマンに影響を与え続けている。また、カンヌ映画祭の審査委員や照明デザイナーとしても活躍し、後進の育成や撮影技術の開発、保護などにも尽力を注いでいる。近年<!--いつ? →WP:DATED-->では[[カルロス・サウラ]]とのコンビが多い。
 
2003年、ICG(国際撮影監督協会)は映画撮影史上最も影響を与えた人物として[[ビリー・ビッツアー]]、[[ジョーダン・クローネンウェス]]、[[コンラッド・L・ホール]]、[[ジェームズ・ウォン・ハウ]]、[[グレッグ・トーランド]]、[[ハスケル・ウェクスラー]]、[[ゴードン・ウィリス]]、[[フレディ・ヤング]]、[[ヴィルモス・スィグモンド]]、[[スヴェン・ニクヴィスト]]と並んで ヴィットリオ・ストラーロを選出した。
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* 1990年 ニューヨーク映画批評家協会賞受賞 (撮影賞:『シェルタリング・スカイ』)
 
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[[Category:イタリアの撮影監督]]
[[Category:ローマ出身の人物]]
[[Category:アカデミー賞受賞者]]
[[Category:1940年生]]
 
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[[de:Vittorio Storaro]]
[[en:Vittorio Storaro]]