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'''三好 義継'''(みよし よしつぐ、[[天文 (元号)|天文]]20年([[1551年]] - [[天正]]元年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]([[1573年]][[12月10日]]))))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の人。[[三好長慶]]の養嗣子。実父は長慶の弟[[十河一存]]。長慶の実子[[三好義興]]が若死にしたため、長慶の養嗣子となって主家に入り、[[1564年]]に長慶の死で家督を相続した
 
家督相続当時、既に重臣の[[松永久秀]]や[[三好三人衆]]が主家を凌駕する実力を保持していて、義継は彼らの傀儡に過ぎなかった。[[1565年]]に松永久秀や三好三人衆に促されて将軍[[足利義輝]]の暗殺に加担した。
長慶の実子・[[三好義興]]が若死にしたため、長慶の養嗣子となる。[[1564年]]、長慶の死で家督を相続した。
 
その後三好三人衆と不仲になって一時拘禁されたが、[[1568年]][[織田信長]]が上洛してくるとこれに降って、[[河内国|河内]]半国と[[若江城]]の領有を認めら安堵さしかし1572年に[[足利義昭]]らの反信長包囲網が敷かれると義継は久秀ととも呼応して信長から離反する。このが、翌年、信長の命を受けた[[佐久間信盛]]率いる織田軍に若江城を攻められ、家臣裏切りにも遭って妻子ともどもした。
しかし[[三好氏]]の実権は重臣の[[松永久秀]]や三好三人衆に握られており、義継は傀儡のような存在であった。[[1565年]]、松永久秀や三人衆とともに将軍・[[足利義輝]]暗殺を実行している。しかしその後、三人衆と不仲になって一時、拘禁されたという。
 
[[1568年]]、[[織田信長]]が上洛してくるとこれに降って、[[河内国|河内]]半国と[[若江城]]の領有を認められる。しかし信長包囲網が敷かれると義継は久秀とともに信長から離反する。このため翌年、信長の命を受けた[[佐久間信盛]]率いる織田軍に若江城を攻められ、家臣の裏切りにも遭って妻子ともども自殺した。