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南北朝時代から室町時代にかけては[[土佐国]]の分郡[[守護]]に任命される。
 
鎌倉時代末期の[[1313年]]に宗家は安芸国に移住し、[[駿河丸城]]、続いて[[小倉山城]]を拠点に強盛を誇った。その兵は精強で、吉川経基の頃には'''鬼吉川'''と呼ばれ、他家からは畏怖された。
 
[[吉川国経]]の娘を[[毛利元就]]が、国経の嫡男・[[吉川元経|元経]]が元就の姉を、それぞれ娶った関係から、毛利家と吉川家は姻戚関係となる。しかし元経の嫡男で、吉川家を継いだ[[吉川興経]]は、大内方と尼子方への背反を繰り返し、特に[[1542年]]から始まる[[大内義隆]]による[[出雲]]攻めの際には尼子方に寝返りの末、大内軍は敗走。結果、元就も窮地に追い込んだ。元就の正室の死後に、元就による吉川家への調略が始まり、吉川家重臣は尽く興経を離れ毛利方へつき、興経は元就の次男・[[吉川元春|毛利元春]]を養子に迎え、隠居せざるをえなくなったが、やがて元就の謀略で興経自身が謀殺されてしまう。
 
その後の吉川氏は元春から[[吉川元長]]、そして[[吉川広家]]と継承されたが、[[関ヶ原の戦い]]で[[毛利氏]]が減封されたため、[[周防国|周防]][[岩国藩]]主となる。広家以降は毛利家と家格について軋轢が生じ、末家として独立をみとめられなかった(同じ毛利家中でも[[長府藩]]創設には特殊な事情があるため、一概に同一視は出来ない)。しかし幕府からは諸侯の扱いを受け参勤交代等も行っていた。[[明治維新]]まで存続し、幕末に朝廷から諸侯としての独立を認められた。[[明治]]時代に子爵となる。