「全日空サッカークラブ」の版間の差分

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その後、[[名古屋相互銀行サッカー部|名古屋相互銀行]]や[[永大産業サッカー部|永大産業]]で選手、指導者経験のある[[塩澤敏彦]]を監督に迎えるとクラブは躍進を続け、1988年に1部へ復帰すると'''全日空サッカークラブ'''に改称。[[前田治]]や[[モネール]]らを擁して1988-1989シーズンには2位、翌1989-90シーズンは3位に入る健闘を魅せた。この成功を受けて新卒選手の獲得が容易となり、以降も安定した成績を残し続けた事が1993年からのJリーグ参加に繋がったと云える。
 
1991年に塩澤に代わって[[日産自動車サッカー部|日産自動車]]の監督として実績のある[[加茂周]]が監督に就任。加茂は当時世界最先端の戦術であった[[ゾーンプレス]]<ref>[[アリゴ・サッキ]]監督の下で[[ACミラン]]が世界を席巻した事で知られるが、加茂は著書の中で1989年の[[コパ・アメリカ]]における[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]の戦術に強い影響を受けたと語っている。</ref>を導入する為、[[スロベニア]]から[[ズデンコ・ベルデニック]]をコーチとして招聘し戦術の浸透に務めた。
 
また2006年シーズンまで[[横浜F・マリノス]]が練習グランドとして使用していた戸塚グラウンドは元々中区スポーツ少年団時代から全日空が使用していたグラウンドであり、2007年から[[日本プロサッカーリーグ#Jリーグ ディビジョン1 (J1)|J1]]に昇格した[[横浜FC]]が使用を開始したのに伴い、言わば「[[里帰り]]」を果たすことになった。
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|1981||神奈川県1部||優勝|||||||||||||
|-
|1982||関東||3位||23||11||1||6||32|||21
|-
|1983||関東||優勝||31||14||3||1||55|||11
|-
|[[1984年のJSL|1984]]||bgcolor=silver|JSL2部||bgcolor=silver|2位||26||12||2||4||31||17||rowspan="2"|栗本直
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==ボイコット事件==
[[1986年]][[3月22日]]、第21回日本サッカーリーグ第22節の対[[三菱重工業サッカー部|三菱重工]]戦([[国立西が丘サッカー場]])にいて、かねてから全日空によるクラブ運営に不満を抱いていた全日空所属の登録選手6名が試合をボイコットした。
 
この試合は控えゴールキーパーを含む残りの10選手で行われ、1対6で三菱に敗れた。ルール上、1チーム7名以上の選手がプレーしていれば試合は成立するが、このリーグ史上初の不祥事に[[日本サッカー協会]]は、試合をボイコットした6選手に対して無期限登録停止、全日空クラブに対し翌シーズンの[[JSLカップ]]を含む3か月間の公式戦出場停止の処分をくだした。
 
なお、この時に無期限登録停止になった選手のうち2人が「横浜サッカー&カルチャークラブ(現・[[横浜スポーツ&カルチャークラブ]])」を設立した。
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*[[ネストール・オマール・ピッコリ|ピッコリ]]
*[[モネール]]
 
==参考文献==
*[[加茂周]] 『モダンサッカーへの挑戦』([[講談社]]、1994年)
 
==脚注==
<div class="references-small"><references /></div>
 
[[Category:現在活動していない日本のサッカークラブ|せんにつくうよこはまくらふ]]