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[[尼子経久]]の時代から[[家老]]として家中でも重きを成した。[[宇山久兼]]・[[佐世清宗]]らと並ぶ三重臣の一人でもあり、[[尼子文限帳]]においては[[備前]]のうちで10万石を与えられ、尼子家家中で第3位の地位にあったとされる。[[出雲]]国内では、大原郡牛尾荘を支配していた。
 
[[永正]]8年([[1511年]])、[[大内義興]]の上洛の際、経久と共に大内軍に参加して上洛し、[[三好氏]]と戦った([[船岡山の戦い]])。尼子の主な合戦はほとんど出たという。[[天文 (元号)|天文]]9年([[1540年]])、[[尼子晴久]]に従って、[[毛利元就]]が立て籠もる[[安芸]][[吉田郡山城]]攻めにも参加した。[[永禄]]8年([[1565年]])、毛利元就による[[月山富田城]]攻めが始まると、[[尼子義久]]に従って籠城したが、嫡男の久信と共に毛利元就に降伏した。その後の消息は不明である。
 
[[Category:牛尾氏|ゆききよ]]