「恭帝 (東晋)」の版間の差分

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'''恭帝'''(きょうてい、[[386年]] - [[421年]]、在位[[418年]]-[[420年]])は、[[東晋]]の第11代(最後)の[[皇帝]]。[[姓]]は'''司馬'''、名は'''徳文'''、[[字]]も徳文(名と字が同一である)。第9代皇帝・[[孝武帝 (東晋)|孝武帝]]の次子で、第10代皇帝・[[安帝 (東晋)|安帝]]の同母弟に当たる。
 
==略要==
[[知的障害]]とされる兄安帝と異なり、英明な資質があったと評される。[[劉裕]]が安帝を殺害して簒奪しようとしているのを察知し、常に安帝の傍にいたが、418年、彼が不在の際に安帝は殺害された。その後、劉裕により皇帝として擁立されたが、これはもはや[[禅譲]]の布石としての傀儡に過ぎなかった。そして結局、420年に劉裕に禅譲することを余儀なくされた。こうして東晋は滅亡し、新たに劉裕(高祖武帝)による[[宋 (南朝)|宋]]王朝が成立したのである。
 
そして421年、劉裕より自殺することを命じられたが、<!-- 信仰を理由に ――根拠不明です。このままでは意味が取れないので一時コメントアウト -->自殺することを拒絶し、絞殺されたという。齢36。
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*当陽公主
 
{{先代次代|[[東晋]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第11代:418:418年 - 420年|[[安帝 (東晋)|安帝]]|(次代なし)}}
 
[[Category{{DEFAULTSORT:司馬氏|きようてい]]}}
[[Category:中国史の人物|きようてい とうしん司馬氏]]
[[Category:晋の皇帝|きようてい とうしん]]
[[Category:386年生|きようてい南朝の皇帝]]
[[Category:421386没|きようてい]]
[[Category:421年没]]
 
[[de:Jin Gongdi]]