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'''銭元瓘'''(せんげんかん、[[887年]] - [[941年]])、原名を'''銭伝瓘'''と称し、字は'''明宝'''。[[呉越]]の第2代の王
[[902年]](天復2年)、唐朝により鎮海節度使に任命された[[銭鏐]]であるが、京師に帰還すると人質の提供を求められた。他の嫡子がことごとく唐に向かうことを拒否する中、銭元瓘のみが人質となることを志願した。後に杭州に戻った銭元瓘は成人後に呉越の軍勢を率いて各地を転戦するなどの武功を上げた。これらの活躍により諸兄に譲られる形で銭鏐の後継者となった。
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[[941年]](天福6年)、銭元瓘は薨去し諡号を穆王,廟号世宗を贈られ、[[浙江省]][[蕭山]]龍山南に埋葬された。
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[[Category:887年生]]
[[Category:941年没]]
[[zh:錢元瓘]]
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