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'''高保勗'''('''こう ほきょく'''、[[924年]]
[[北宋]][[建隆]]元年([[960年]])、高保融が病没した際にその子である[[高継沖]]が幼少であったことより遺命により王位を継承し、宋朝より荊南[[節度使]]に任じられた。
高保勗は幼少時病弱であったとされるが、政治的には有能であったのが王位継承者に指名された要因である。ところが、即位後は荒淫な生活を極め、昼間より娼妓を官府に招き、若い士兵との色交を姫妾と共に観想したと史書にある。また建造物にも強い興味を示し、その造営に多額の出費をするなど朝政を省みなくなり、人々の不満が高まった。
建隆3年([[962年]])、高保勗が病死すると高保融の子である[[高継沖]]が嗣位するが、その数ヵ月後に荊南は滅亡することとなり、'''万事休'''の通称が予兆したものとされた。
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[[Category:十国の君主]]
[[Category:924年生]]
▲{{先代次代|[[荊南]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第4代:960年 - 962年|[[高保融]]|[[高継沖]]}}
▲[[Category:宋代の人物|こうほきよく]]
▲[[Category:924年生|こうほきよく]]
▲[[Category:962年没|こうほきよく]]
[[zh:高保勗]]
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