「川上哲治」の版間の差分

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===その他===
*長嶋との対立は世間の注目を浴び、バラエティ番組などでも扱われた。その中でも、当時はサラリーマンだった[[DON|ドン川上]]は、長嶋の物真似をする[[プリティ長嶋]]とのコンビが好評を博し、シングル「来たかチョーさん、待ってたドン」を発売した。その後、ドン川上はサラリーマンを辞め、芸能界に転身した。
*阪神の[[星野仙一]]シニアディレクターが師と仰ぎ、それにあやかって川上の巨人監督時代の背番号77をつけていたという話は有名。星野が監督時代に選手の妻に手紙を書いたり、誕生日に花を贈ったエピソードは有名だが、[[ベースボール・マガジン社]]顧問の[[田村大五]]によると、これは川上が監督時代に既に行っていたことである[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/coaching/column/200607/at00010064.html]ちなみに川上自身が77番をつけた理由は、息子が当時の人気番組「[[サンセット77]]」のファンだったからだという。
*自身の後を継いだ長嶋が[[1980年]]に巨人の監督を解任された際、巨人信者として知られる[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[徳光和夫|徳光アナ]]が[[ズームイン!!朝!]]で長嶋の解任について激怒するとともに川上を痛烈に批判した(この時の解任劇には川上が関与したと言われているが、著書の中で彼は強く否定している)。<!--このため、徳光の怒りに触れた最初の野球人という不名誉な称号をつけられることとなった。-->
*「[[落合博満|オレ流]]」と称され、マスコミや球界OBから何かと風当たりの強い[[中日ドラゴンズ]]の[[落合博満]]監督の数少ない理解者の1人である。落合が[[2004年]]の監督就任直後に沖縄で行った春季キャンプには、老齢の体を押して視察に訪れ、「落合君は日本のプロ野球に革命を起こそうとしている」と絶賛。[[2007年]]、落合監督の[[山井大介|山井]]采配でマスコミや球界OBから風当たりの強い中、[[正力松太郎賞]]選考で、「(当日逝去した)[[稲尾和久|稲尾]]君がいても、落合君を選んだと思う。」と落合監督の姿勢を支持した。