「八尾・若江の戦い」の版間の差分

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==河内方面の情勢==
豊臣方は、[[大坂城]]が'''大坂冬の陣'''ののち[[堀]]をすべて埋められてしまったため、夏の陣では[[]]を出て戦わざるをえない状況になっていた。幕府軍は[[河内国|河内]]方面、[[大和国|大和]]方面および[[紀伊国|紀伊]]方面より大坂城に迫った。河内方面隊は[[藤堂高虎]]、[[井伊直孝]]を先鋒とし[[本多忠朝]]、[[前田利常]]、[[松平忠直]]など総勢55,000の兵で構成されており、[[立石街道・おおと越|立石街道]]から道明寺へ向かっていた。そのあとに[[徳川家康]]、[[徳川秀忠|秀忠]]ら本営が続いた。
 
[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]、豊臣軍では、河内口から来る幕府軍に対し、大坂城東方、大部隊の機動には適さない低[[湿原|湿地]]帯で迎撃することにし、[[木村重成]]の兵6,000が大坂城を出発した。[[長宗我部盛親]]、[[増田盛次]]の兵5,300もそのころに出発したと思われる。
 
[[5月5日 (旧暦)|5月5日]][[]]、木村重成は今福方面を視察し、こちらに幕府軍が来襲する可能性は低いと見た。そこで徳川家康・秀忠本営に側面から迫るべく、若江に兵を進めることにした。
 
[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]、木村重成は[[午前]]0時頃には出発したいと考えていたが、兵の集結が遅れ、午前2時頃にようやく出発できた。途中道を間違え[[沼地]]で立ち往生するなど、木村自身や兵の練度に問題があり、進軍は順調にはいかなかった。
 
午前1時、井伊直孝は部隊に命令して食事させ、進軍の命を待たせた。
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萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒[[吉田重親]]は、藤堂勢中備[[藤堂高吉]]の攻撃をうけた。吉田は本隊に対し攻撃を受けている旨伝令し、応戦したが壊滅、吉田は戦死した。吉田の知らせをうけた長宗我部盛親は、[[長瀬川 (大阪府)|長瀬川]]で迎撃の体勢を取った。
 
藤堂勢の左先鋒[[藤堂高刑]]、[[桑名吉成]]は道明寺へ向かう先頭にあったが、転進、[[玉串川]]を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫った。高虎の[[旗本]][[藤堂氏勝]]もそれに続いた。盛親は騎馬武者もすべて下馬させ、[[槍]]を持たせて堤防の上に伏せさせた。藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせた。
藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑、桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は負傷したが、退却中に死亡した。藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され、撃退された。
 
[[正午]]頃まで戦闘は続き、小康状態になったところで長宗我部勢は長瀬川堤で陣を整え、休息した。そこへ若江の木村重成の敗報が届いた。敵中での孤立をおそれた盛親は大坂城へ撤退した。
 
==若江の戦い==
午前5時頃、木村勢は若江に着陣、先鋒を3手に分け、敵に備えた。その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同[[藤堂良重|良重]]が攻撃をかけた。藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死した。
木村は玉串川西側堤上に[[火縄銃|鉄砲]]隊を配置し、敵を田圃のあぜ[[畦|畦]]に誘引して襲撃しようともくろんだ。
 
午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。井伊勢の先鋒は右手[[庵原朝昌]]、左手[[川上良利]]。木村勢を発見した川上良利は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。川上はさらに突進したが戦死した。そこに庵原も加わり激戦となった。木村重成は自身も槍を取って勇戦したが戦死した。[[山口弘定]]、[[内藤長秋]]も戦死し、木村本隊は壊滅した。