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[[太極拳]]・[[形意拳]]・[[八卦掌]]を教授した。
 
初学は河北派形意拳の大家として知られる、八卦掌の開祖・[[董海川]]の最晩年の弟子であった[[張占魁]]に就いて閉門弟子(最後の弟子)となり、形意拳及び八卦掌を教授される。張の没後は、[[王向斉]]から「拳法禅」を習う(実際は[[郭雲深]]派の形意拳であったと思われる。「大成拳樁法」と表記されることもあるが、王が[[意拳]]を教え始めた頃とは、若干時期が合わないと指摘する武術家もいる。王樹金が王向斉からも形意拳を学んだ事は、武術家たちの間ではいわば公然の秘密扱いになっている。何故このような扱いにされているのかは、全ては王向斉が形意門から完全に離れてしまい、独自に意拳を創始したことに原因があったと思われる。当時の王向斉に対する形意門内の反感は、[[孫禄堂]]などが王向斉に抗議文を書いた逸話も知られているとおり、非常に大きかった)。
 
その後、八卦掌の三世伝人であった[[蕭海波]]に知己を得て指導を受ける。
 
[[共産党]]による[[南京]]制圧間際の[[1949年]]には、信仰上の理由から[[台湾]]に布教活動に渡り、「誠明国術館」を設立。この頃の王は台湾の武術家を相手に積極的に比武を行い、連戦連勝して無敗を誇る。また、正宗太極拳(王樹金と交流の深かった[[陳泮嶺]]が制定したとされる[[双辺太極拳]])、形意拳、八卦掌などの武術を指導した
 
晩年は[[蒋介石]]の[[中国国民党|国民党]]政府の要請により渡日、中国武術の教授を行う。王の教授した門弟は多数に及び、現代においても日本の武術・武道界に巨大な影響を残している。我が国において王の技は拝師門徒であった[[地曳秀峰]](全日本柔拳連盟)や、[[河野義勝]](義誠国術館)などの手によって後進に教授され続けている。