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'''趙'''('''ちょうふ'''、[[1127年]]([[建炎]]元年) - [[1129年]]([[建炎]]3年))は[[南宋]]の初代[[皇帝]]の[[高宗 (宋)|高宗]]の一人息子で[[皇太子]]。生母は[[開封]]の人で、北宋末期~南宋初期の大臣の[[潘永寿]]の娘の潘賢妃。[[諡号]]は'''元懿太子'''(げんいたいし)。 
 
生母は[[開封]]の人で、北宋末期~南宋初期の大臣の[[潘永寿]]の娘の潘賢妃。[[諡号]]は'''元懿太子'''(げんいたいし)。 
 
==生涯==
[[1129年]]に、高宗の政策に反対する[[李綱]]ら武断派の重臣達の圧力によって、わずか3歳で父からいったん譲位される。だが、[[秦檜]]・[[張浚]]ら文治派の家臣達の猛反対で元の太子に戻ったという。
『[[宋史]]』によると、彼は病弱でこの年の秋7月にわずか3歳で夭折したという。その時の父・高宗の悲しみは尋常でなく、数日間は涙が溢れ出して慟哭を繰り返していたという。そのために、族子(おい、一族の子)の[[孝宗 (宋)|<font lang="zh">趙眘</font>]](ちょうしん)を養子に迎えたという。
 
 
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