「長尾晴景」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
PrimeN (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
3行目:
{{武士/生誕|[[永正]]6年([[1509年]]) }}
{{武士/死没|[[天文 (元号)|天文]]22年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]([[1553年]][[3月23日]])}}
{{武士/別名|弥六郎(幼名)定景(別名)。道一(法号)}}
{{武士/諡号|道一}}
{{武士/戒名|千厳院殿華岳光栄}}
{{武士/官位|弾正左衛門尉}}
{{武士/氏族|[[長尾氏]]}}
{{武士/父母|父:[[長尾為景]]、母:[[青岩院]](虎御前)}}
{{武士/妻|[[正室]]:未詳}}
{{武士/兄弟|'''長尾晴景'''、[[仙桃院]]、[[長尾景康]]<br />[[長尾景房]]?、長尾景虎([[上杉謙信]])}}
{{武士/子|長尾猿千代(生母不明、早世)、<br />養子:''長尾景虎''}}
19 ⟶ 17行目:
室町幕府将軍[[足利義晴]]から偏諱を与えられ「晴景」と名乗る。天文5年([[1536年]])に父の為景から[[家督]]を譲られ、[[春日山城]]主となる。父の為景と異なり穏健政策をとり、領内の国人との融和を図っていたが、かえって国人統制に失敗し、主君である越後守護の[[上杉定実]]の[[伊達氏]]からの[[養子縁組]]問題([[天文の乱]])で越後国内が乱れた際も無策であった。伊達氏の内紛に助けられ守護上杉家の復権は阻止したものの、[[黒田秀忠]]などが反乱を起こし越後国内の情勢はますます不穏になる。城下の寺院へ入門していた弟の長尾虎千代([[上杉謙信|長尾景虎]]、後の上杉謙信)が還俗して[[栃尾城]]主となり、反乱を鎮め家中での名声を高めると、家臣の一部の間で景虎の擁立を望むようになり、家中分裂の危機を迎える。
 
そこで天文17年([[1548年]])には、定実の仲介のもとに、景虎に家督を譲って[[隠居]]する。天文22年(1553年)2月10日没、死去した。享年42。
 
病弱な人物であったと伝えられている。また、後年1部の史書には景虎が晴景を殺害して家督を奪ったとする記述もある。
 
== 関連項目 ==