「恭帝侗」の版間の差分

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段達が礼部尚書・右翊衛大将軍となり、王世充が吏部尚書・左翊衛大将軍となり、元文都が内史令・左驍衛大将軍となり、盧楚が内史令となり、皇甫無逸が兵部尚書・右武衛大将軍となり、郭文懿が内史侍郎となり、趙長文が黄門侍郎となって、朝廷を牛耳った。ときに洛陽の人々は段達らを「七貴」と称した。七貴のあいだは険悪で、元文都・盧楚・郭文懿・趙長文は王世充に殺害され、皇甫無逸は[[長安]]に逃れて[[唐]]に帰順した。
 
王世充が李密を破って実権を完全に掌握すると、[[619年]]には楊侗は王世充に[[禅譲]]することを余儀なくされた上に殺害された。帝位に就いたといっても、[[李淵]]に禅譲した異母兄の[[恭帝侑 (隋)|恭帝侑]]とは異なり、後世からは正統な皇帝とされていない。
 
== 伝記資料 ==
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* [[宮崎市定]]「隋恭帝兄弟考」(『隋の煬帝』([[中公文庫]]、1987年)所収)
 
{{先代次代|[[隋]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|618年 - 619年|[[恭帝侑 (隋)|恭帝侑]]|―}}
 
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