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'''ティアーズ・フォー・フィアーズ'''(''' Tears for Fears ''')は[[イギリス]]の2人組 [[バンド (音楽)|バンド]]。[[1980年代]]に数々のヒット曲を放った。
 
初期は、[[シンセサイザー]]を多用しながらアコースティックな印象すら与えるたおやかな音使いをしており、当時流行したエレポップと呼ばれる音楽性の範疇にありながら、歌詞の繊細さとよくマッチしたサウンド・メイクが特徴となっている。やがて[[ローランド・オーザバル]]のギターサウンドを核に、王道とも呼べる良質なブリティッシュ・ロックを聞かせるバンド・サウンドへと変化していく。
==略歴==
[[1980年]]にデビューしたグラデュエイトというバンドに在籍していた、共に観光地[[バース (イギリス)|バース]]に生まれ育ったローランド・オーザバル、カート・スミスにより[[1981年]]に結成、フォノグラムよりデビュー。"Tears for Fears"というバンド名は臨床心理学者アーサー・ヤノフの著作「原初からの叫び」の章タイトルから取ったもの。レコード会社は変更を命じるが、拒否した。デビュー・シングルは「サファー・ザ・チルドレン」。[[1982年]]に「マッド・ワールド」がヒットし、当時流行していた[[シンセサイザー]]・ポップのアーティストとして脚光を浴びる。"pale shelter"や"change"もヒットとなり、根強いファンを獲得、イギリスでの[[ニューウェーブ]]の旗手と目される。ファーストアルバム「ザ・ハーティング」には、[[ピーター・ガブリエル]]、[[ジャパン (バンド)]]等の影響を見ることができる。
 
== バンド名の由来 ==
[[1984年]]、シングル"The Way You Are"をリリースするが、[[坂本龍一]]に傾倒したシンセや日本の盆踊りを彷彿させるドラムはマニアック過ぎ、広くは受け入れられなかった。
心理学者アーサー・ヤノフの著書「原初からの叫び」に登場する章題からそのまま取られている。直訳すれば「恐れのための涙」。ヤノフの提唱した心理療法である原初療法([[ジョン・レノン]]らも受けたと伝えられる)は「恐怖や心の痛み(Pain)を心にしまわないで、子供のように声に出して叫べ、泣け」というもの。ティアーズ・フォー・フィアーズの初期の歌詞に「Shout」「Pain」という言葉が頻出するのはそこから来ている。
 
== 来歴 ==
[[1985年]]、[[フェアライトCMI]]を大幅に導入し、よりアメリカを意識してクオリティの高いサウンドを構築したアルバム「ソングス・フロム・ザ・ビッグ・チェアー」を発表。アルバム・タイトルはテレビドラマ「シビル」から取られた。多重人格の少女が唯一くつろげる大きな椅子のこと。イギリスでの大ヒットに続き、アメリカでも「ルール・ザ・ワールド」、「シャウト」という2曲の全米ナンバーワンヒットを送り出し、世界的な成功を手にした。日本でも1985年の[[スズキ (自動車メーカー)]]「[[カルタス]]」CMに採用され、[[舘ひろし]]とともに広く認知される。さらに、「ヘッド・オーバー・ヒールズ」もチャート上位にランクしたが、これは印象的なイントロから後年カルト映画「[[ドニー・ダーコ]]」でも取り上げられることになる。同年には「[[ライブ・エイド]]」にも出演する予定だったが、直前になってサポートメンバーが脱退したためキャンセルしている。(ライブ・エイドの主催者[[ボブ・ゲルドフ]]の横柄な態度に対してローランド・オーザバルが切れたため、というのが辞退の真相らしい。)
=== 1.デビュー以前 ===
両親の離婚に伴い[[ポーツマス (ハンプシャー州)]]から[[バース (イギリス)]]へ移り住んだ[[ローランド・オーザバル]]は、同じく離婚家庭に育った[[カート・スミス]]と13歳のときに出会い、一緒に音楽活動をするようになる。この両親の離婚、残された子供たちの心の痛みと悲嘆というテーマは、初期TFFの活動に重要な影響を及ぼしていく。
 
ティアーズ・フォー・フィアーズ(以下、TFF)始動以前に彼らが結成したバンドにはグラデュエイト(Graduate)、ネオン(Neon)、ヒストリー・オブ・ヘッドエイクス(History of Headaches)等がある。グラデュエイトはモッズ・スタイルのスカ・バンドであり、スペインでスマッシュ・ヒットを出し、同国にてツアーを行った。ネオンには後にネイキッド・アイズ、クライミー・フィッシャーを結成しヒットを飛ばすロブ・フィッシャーが在籍していた。各バンドで、ローランドはギターとボーカル、カートはベースとボーカルを担当した。
[[1989年]]に発表された「シーズ・オブ・ラブ」では従来の[[シンセサイザー]]・ポップ路線から[[ビートルズ]]や[[R&B]]の影響を感じさせる作風へと転換。同名シングルもヒットし、引き続き高い評価を得た。[[カンザス州]]のホテルで歌っていたオリータ・アダムスを起用、多数のスタジオ・ミュージシャンも参加している。シングル「ウーマン・イン・チェインズ」では[[フィル・コリンズ]]のドラム、他にベースでピノ・パラディーノ等。しかしこの後にオーザバルとスミスは袂を分かち、スミスはソロアルバム"Soul on Board"をリリースした。その後、スミスはニューヨークを拠点に自らのバンド"Mayfield"でインディーにて地道に活動を続けることとなる。
 
=== 2.アルバム『ザ・ハーティング』 ===
[[1993年]]にオーザバルはアラン・グリフィスとともにティアーズ・フォー・フィアーズとしての活動を再開し2枚のアルバムを発表する。4枚目のアルバム「エレメンタル」は、ソロプロジェクトの色彩が強く、マニアの評価は高い。ベースで現在[[デビッド・ボウイ]]のサポートを務めるゲイル・アン・ドロシーが参加しており、次のアルバムまで緻密なプレイを披露している。
グラデュエイト解散後、ローランドとカートは音楽上のパートナーを探していたキーボード奏者のイアン・スタンリーと出会う。イアンの所有するスタジオで3人はデモテープ作成に励み、バンド名もティアーズ・フォー・フィアーズと新しく名づけた。間もなくしてフォノグラムと契約し、1981年10月、デビュー・シングル「悩める子供たち」をリリース。この曲はヒットこそしなかったものの良好なオン・エア率を記録。その後3枚目のシングル「狂気の世界」が大ヒット、快進撃は「チェンジ」、「ペイル・シェルター」と続き、これらの楽曲を収録した1stアルバム『ザ・ハーティング』は全英で1位を記録する。
 
しかし次のシングル「ザ・ウェイ・ユー・アー」がヒットせず、息切れを見せた彼らは休養し、新たなアイデア作りの時間をとるため、音楽シーンから一旦、姿を消す。
1994年~1995年あたりにフォノグラムから[[エピック・レコード]]に移籍。[[1995年]]には、5枚目のアルバム「キングス・オブ・スペイン」を発表。ギターとして[[キャロル・キング]]の娘ルイーズ・ゴフィンがツアーに参加した。その後は再び活動停止状態となっていたが、ローランドはソロアルバム"Tomcats screaming outside"をリリースし健在ぶりを示した。
 
=== 3.アルバム『シャウト』 ===
[[2003年]]12月、Gary Julesによるカバー・バージョンの「マッド・ワールド」が映画「[[ドニー・ダーコ]]」のエンドロールで流されたことにより、イギリスで大ヒットとなった。オーザバルとスミスの2人はこの頃から再会して再び一緒に曲を作り始め、[[TLC]]等を手がけた敏腕プロデューサーAntonio LA REIDが二人のデモに惚れ込み、彼の所属する[[アリスタ・レコード]]と契約することになった。しかし、同レーベルの経営上の問題等からリリースは延期され、ユニバーサル傘下の新レーベルでのリリースまで1年以上のお蔵入りを余儀なくされた。
約1年近いブランクの間、彼らは新しいTFFサウンドを練り直すことに専念していた。イアン・スタンリー、マニー・エリアス(ドラム)、そしてプロデューサーのクリス・ヒューズと共に生み出されたサウンドはより力強くキャッチーなものになり、1984年の12月にリリースされたシングル「シャウト」は全英2位、全米1位を記録。続いて「ルール・ザ・ワールド」が全英・全米1位、「ヘッド・オーヴァー・ヒールズ」が全米3位。アルバムは世界中で1000万枚近く売れるなど、折からの第2次[[ブリティッシュ・インヴェイジョン]]の波にも乗り、TFFの名は世界中に知られることとなった。大々的なワールド・ツアーが行われ、唯一の来日公演(1985年8月、東京・大阪・名古屋)もこの時期に行われている。
 
ツアーに次ぐツアーの日々で疲れ果てたローランドとカートは、お互いの仲も悪化し、解散を意識するまでに至る。そんなとき、カンザス・シティーのホテル・バーでふと耳にした黒人女性の歌に大きな感動を覚えた彼らは、自分たちの音楽の方向性に疑問を持ち始める。ツアーを終え、新しいアルバム作りに取りかかるも、これまでのTFFサウンドの枠から出ないイアン・スタンリーやクリス・ヒューズとの音作りにローランドとカートは満足できなくなっていたのだった。
[[2004年]]にオーザバルとスミスによるティアーズ・フォー・フィアーズが復活した。アルバム"Everybody Loves A Happy Ending"は、社会への視点をより成熟させ、ポップセンスとビートルズ的な要素に磨きがかかっており、往年のファンを喜ばせた。オーザバルはバースから[[ロサンゼルス]]のスミス家近くに居を移した。2人はさまざまなメディアで再結成をアピールし、アメリカ、ヨーロッパのツアーも精力的に行った。
 
===4.アルバム『シーズ・オブ・ラヴ』 ===
カンザス・シティーでのオリータ・アダムスとの出会いに新たなエモーションを得たローランドとカートは、全くの無名だった彼女を抜擢。新たなアルバム作りに向けてゲスト参加を要請する(オリータはその後。ローランドのプロデュースでソロデビュー。グラミー賞候補になるなど、大きな評価を受けた)。
 
オリータのヴォーカルとピアノに加え、 [[フィル・コリンズ]]、ピノ・パラディーノ、マヌ・カッチェ、ニッキー・ホランド等の多彩なゲスト・ミュージシャンを迎えて作られた新たなTFFサウンドは、これまでの彼らのスタジオ・ワークにはほとんどど見られなかったライヴ感を強く感じさせるものとなった。本作の時点でイアンとマニーはすでに脱退しており、以降、パーマネント・メンバーを加えずに、TFFはローランドとカートのデュオを核にサポートを加えてバンド・サウンドを展開するスタイルとなっていく。
 
前作から4年ぶりの活動再開であったが、1989年8月にリリースされたシングル「シーズ・オブ・ラヴ」は全英5位、全米2位となり、またアルバムも全英1位、全米8位を記録、彼らの復活を強く印象付けるものとなった。
 
=== 5.カート・スミス脱退 ===
全世界から大好評をもって迎えられた『シーズ・オブ・ラヴ』ツアーだったが、そのさ中にローランドとカートの不和が表面化する。ツアー終了後、ニューヨークに移り住んだカートが音楽誌に突然TFF脱退を発表。事前に知らされていなかったローランドは大きなショックを受けた。ローランドのそのときの心境は、カート脱退直後に発表されたベスト・アルバム『ティアーズ・ロール・ダウン~グレイテスト・ヒッツ ’82-’92』用に新録された「ティアーズ・ロール・ダウン’92」にて吐露されているとも言われる。なお、ローランドはこの頃、Johnny Panic and the Bible of Dreamsの名義でシングルを発表している。
 
=== 6.アルバム『ブレイク・イット・ダウン・アゲイン』 ===
ローランドとカートとの間には権利関係など様々な問題が残ったが、結局はローランドがTFFの名を相続。一方、カートはソロ・アルバムや自分のバンド、Mayfield等で米国を拠点に活動していくようになる。
ローランドは新しいパートナーとして旧友のアラン・グリフィスを選び、プロデューサーにティム・パーマーを迎えて自分のスタジオでニュー・アルバムのレコーディングを始めた。
 
1993年、アルバム『ブレイク・イット・ダウン・アゲイン』は、カートの1stソロ・アルバム『コーリング・アウト』と競い合うように同時期にリリースされている。ちなみにどちらも邦題は1stシングルのタイトルをカタカナ表記したものになっている。カート脱退後のTFFの音は、より練り上げられて重厚さを増したものとなり、ローランドのボーカルはより力強く響く。歌詞は難解さを増した。本作では、カートを風刺したと思われる「陸に上がった河童君」(後にカートはアルバム『Mayfield』で「Sun King」というアンサー・ソングを発表している)、スタジアム・バンドになってしまい昔の新鮮な情熱を失ってしまったほろ苦さを歌った「グッドナイト・ソング」等がファンの間で話題となった。
 
=== 7.アルバム『キングス・オブ・スペイン』 ===
本作はリリースされるまでにいささか複雑な経緯をたどった。1995年5月にリリースが決まり、曲目までプレスに発表されていたのだが、突如TFFはそれまでのレーベルであるフォノグラムからエピック・ソニーへと移籍。それに従い収録曲、曲順等を若干変えて新たにリリースされたのだ。原因は、フォノグラムがこのアルバムにプライオリティを置くことはないだろうとTFF側が感じたためらしい。
 
アルバムからは、今までの「心の痛み」といったTFFの音楽性における重要なテーマが影をひそめ、ローランドの家系(父親はフランス人で、バスク系スペイン人の王族の血を引く)や家庭についてなどのパーソナルな内容となった。その多くは暖かいラブ・ソングである。ちなみに原題にある「Raoul(ラウール)」とは元々ローランドのあだ名で、彼が息子につけた名前でもある。
 
アルバムに伴うワールド・ツアー「Live Kings Tour」も好評を博し、エピック・ソニーの大々的なプロモーション戦略によりスペインの古城でライヴ・セッションを行うなど話題を集めたものの、今作はヒットすることなく終わり、エピック・ソニーからも契約を打ち切られた。
 
=== 8.再結成~アルバム『Everybody Loves A Happy Ending』 ===
その後、カートはソロ名義でミニ・アルバム「Aeroplain」(2000年)を発表、ローランドもまたソロ名義にてアルバム『Tomcat Outside Screaming』(2001年)を発表する。この頃から、オーザバル/スミスによるTFFの再結成が噂されるようになった。
 
やがて二人は再び一緒に曲作りを始め、2004年、分裂以来、実に16年ぶりに二枚看板が揃った新作アルバム『Everybody Loves A Happy Ending』(日本未発売)をリリース。アメリカ、ヨーロッパを中心にツアーを行った。
 
2006年には前年にパリで行われたライヴの模様を収めたCD+DVD『Secret World』(日本未発売)がフランスでリリースされ、本国イギリスの輸入盤チャートにて長期にわたり上位にランクインした。
以降もオムニバス・ライブ・イベントである「Night of the Proms」への参加、世界各地でライヴを行うなど、順調に活動を続けている。
 
== エピソード ==
・レコード会社との契約時、同じレーベルに似た名前のバンド(ティアドロップ・エクスプローズ=The Teardrop Explodesと推測されている。ジュリアン・コープが在籍したことで知られる)があったことから、バンド名の変更を提案されるが拒否した。
 
・2ndアルバムの原題『Songs From The Big Chair (大きな椅子からの歌集)』は、『Sybil』という映画から取られている。主人公の少女シビルは16の人格を持つ多重人格者で、治療中に医師の大きな椅子に座っているときにだけ安心感を得られた、というエピソードから。フローラ・R・シュライバーによるこの作品の原作は「失われた私 多重人格シビルの記録(旧題・シビル-私の中の16人)」というタイトルで日本でも出版されている。
 
・1985年の[[ライヴ・エイド]]には参加を予定していたが、直前にキャンセルしたため批判を浴びた。ライヴ・エイド直前にツアー・ミュージシャン2名が脱退し、演奏のレベルを保てなくなったことが原因と言われている。主催者である[[ボブ・ゲルドフ]]は、翌年のスポーツ・エイドのテーマ・ソングとして「ルール・ザ・ワールド(Everybody Wants To Rule The World)」の歌詞を微妙に変えて作られた「Everybody Wants To Run The World」を採用している。
 
・TFFの曲をカバーしたアーティストは数多い。有名なところでは、2003年に映画『[[ドニー・ダーコ]]』に「狂気の世界」のゲイリー・ジュールズによるカバー・ヴァージョンが使われ、大ヒットを記録した。最近では[[パティ・スミス]]が「ルール・ザ・ワールド」をカバーしている。
 
== ディスコグラフィ ==
=== アルバム ===
ザ・ハーティング - The Hurting
 
シャウト - Songs From The Big Chair
 
シーズ・オブ・ラヴ - The Seeds Of Love
 
Collusion(日本盤のみリリースの4枚組CDボックス)
 
ティアーズ・ロール・ダウン~グレイテスト・ヒッツ ’82-’92(ベスト・アルバム) - Tears Roll Down
 
ブレイク・イット・ダウン・アゲイン - Elemental
 
キングス・オブ・スペイン - Raoul And The Kings Of Spain
 
サタナイン(シングルB面、未CD化音源集) - Saturnine,Martial & Lunatic
 
Everybody Loves A Happy Ending
 
Secret World(ライブ盤)
 
=== シングル ===
悩める子供たち - Suffer The Children (1981)
 
ペイル・シェルター - Pale Shelter (1982)
 
狂気の世界 - Mad World (1982)
 
チェンジ - Change (1983)
 
ペイル・シェルター(リイシュー) - Pale Shelter (1983)
 
ザ・ウェイ・ユー・アー - The Way You Are (1983)
 
マザーズ・トーク - Mothers Talk (1984)
 
シャウト - Shout (1984)
 
ルール・ザ・ワールド - Everybody Wants To Role The World (1985)
 
ヘッド・オーヴァー・ヒールズ - Head Over Heels (1985)
 
アイ・ビリーヴ - I Believe (1985)
 
シーズ・オブ・ラヴ - Sowing The Seeds Of Love (1989)
 
ウーマン・イン・チェインズ - Woman In Chains (1989)
 
アドバイス・フォー・ザ・ヤング・アット・ハート - Advice For The Young At Heart (1990)
 
フェイマス・ラスト・ワーズ - Famous Last Words (1990)
 
ティアーズ・ロール・ダウン’92 - Laid So Low(Tears Roll Down) (1992)
 
ブレイク・イット・ダウン・アゲイン - Break It Down Again (1993)
 
コールド - Cold (1993)
 
グッドナイト・ソング - Goodnight Song (1993)
 
キングス・オブ・スペイン- Raoul And The Kings Of Spain (1995)
 
ゴッズ・ミステイク - God's Mistake (1995)
 
シークレッツ - Secrets (1996)
 
Call Me Merrow (2004)
 
==外部リンク==
*[http://www.tearsforfearstears-for-fears.netcom/index.html Official Site]
*[http://www.tearsforfears.net/ Rabel Official Site]
 
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