「平治物語」の版間の差分

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作者不詳。[[平治]]元年(1159)、[[後白河上皇]]方最大の武力勢力であった[[平清盛]]が[[熊野]]参詣に出かけた隙を狙って、かねてから[[藤原通憲]](信西)と後白河の寵愛をめぐって権力争いを起こしていた[[藤原信頼]]が、[[保元の乱]]での賞与などで[[平家]]の圧迫に不満を覚えていた[[源義朝]]を語らって挙兵する。上皇を大内裏で監禁、通憲を殺害し一度は権勢を握るものの、熊野から引き返した平清盛に敗れ、信頼は処刑、義朝も暗殺される。以降、平家政権の全盛や没落、鎌倉幕府の成立などまでを描いた諸本も多い。『[[保元物語]]』や『[[平家物語]]』と同様、[[和漢混淆文]]で叙述されている。諸本によって内容に異同は大きいが、悪源太義平([[源義平]])の武勇譚や、[[源義経]]の母である[[常盤御前]](常葉とも)が、老いた母のために清盛のもとへと赴く哀憐の話が中心を占めている。『保元物語』と同様に源氏に対して同情的な内容であるのが特徴である。
=== 成立 ===
『平治物語』については、成立に関しては、確かな資料は多くない。ただし、第1類本である[[学習院大学]]図書館蔵本が[[源頼朝]]の死([[正治]]元年・1199)に関する記事を含んでいるので、これ以降であることは確実。この頼朝の死を含まない本文もあるが、永積安明の説によって、第1類本がもっとも古態本文であることがほぼ承認されている。また、[[石井行雄]]によって『[[春華秋月抄草]]』([[宗性]]作)の[[寛元]]4年(1246)の執筆箇所に、物語古態本の断片が存在することが確認されており、すくなくともこの年以前には成立していたと目される。これは[[絵巻]]である『[[平治物語絵詞]]』の書風を、[[藤原教家]]の晩年、[[建長]]年間(1249-1255)のものであると認定した[[松原茂]]の説とも合致しており、以上の説によれば13世紀半ばには成立していたという点は動かないと思われる。そして『[[普通唱導集]]』([[永仁]]5年・1297)には保元・平家と並んで琵琶法師の語りが広まっていたことが記されており、13世紀後半には物語は広く浸透してものと判断される。なお、成立・作者にかんしては『保元物語』と重なる点がおおいので、そちらも参照されたい
== テキスト ==
*『[[日本古典文学大系]]』(岩波書店):底本には[[金刀比羅]]本を使用し、附録として[[古活字]]本を載せる。校注は[[永積安明]]・[[島田勇雄]]。