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'''エルマー・ハリソン・フリック'''('''Elmer Harrison Flick'''、[[1876年]][[1月11日]] - [[1971年]][[1月9日]]) は、1900年代に活躍した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の選手。主なポジションは[[右翼手]]。[[オハイオ州]]ベッドフォード生まれ。右投げ左打ち。
 
== 経歴 ==
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フィリーズには1901年まで在籍し、翌1902年に創設して間もないアメリカンリーグへ移り、同じフィラデルフィアを本拠地にしたアスレチックスに所属する。ところがフィリーズが、州の裁判所命令をたてにこの移籍の無効を訴え、結局アスレチックスでは11試合にしか出場できず、チームメイトだった[[ナップ・ラジョイ]]らと共にクリーブランド・ナップスと再契約することになった。
 
以後引退する1910年まで、ナップスの外野として活躍する。1904年と1906年に盗塁王となり、1905年には首位打者を獲得する。この年のフリックの打率は.308でこれは後年、1968年に[[カール・ヤストレムスキー]]が首位打者になった時の打率(.301) に次ぐ、リーグ史上2番目の低さだった。また1905年から3年続けてリーグ最多の三塁打を放っている。1907年のオフには、当時21才だった[[タイ・カッブ]]とのトレードの話が持ち上がったものの、これを球団が断ったほどであるの活躍ぶりだった

ところが1908年にフリックは[[胃炎]]を患い、1908年以降はフルシーズンでの出場ができなくなってしまった。1910年を最後にメジャーから降格、以後2年間マイナーリーグでプレーした後引退した。
 
[[1963年]]にベテランズ委員会により[[アメリカ野球殿堂]]入り選手に選出された。[[1971年]]にオハイオ州で死去。
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*[[盗塁|盗塁王]]:2回(1904年、1906年)
*最多[[得点]]:1回(1906年)
 
== 特筆・エピソード ==
*1905年に首位打者になったときの打率は.308で、これは1968年に[[カール・ヤストレムスキー]]が首位打者になった時の打率(.301) に次ぐ、リーグ史上2番目の低さだった。
 
== 出典・外部リンク ==