「足利義稙」の版間の差分

 
== 人物・逸話 ==
*『塵塚物語』の「恵林院殿様御事」項に、将軍復職後義材が流浪時代を回顧したという逸話が見える。この中で、不安に襲われた自身や困窮する人々を目の当たりにしたことを回想し義材が、「政治に携わるものは常に慈悲の心をもって臨まねばならない」という心境に至ったとある公卿に語ったことが記され述べている。
*将軍職を追われて諸国を流浪した経緯から、「流れ公方」・「島の公方」と称された。[[陰徳太平記]]には、細川高国と対立して出奔した義稙の乗った船に「たぞやこの鳴門の沖に御所めくは泊り定めぬ流れ公方か」という狂歌が張り出されたを記して
*義稙には息子がなかったが、前将軍で対立者でもあった義澄の子・足利義維を養子として阿波に伴ったため、義稙の死後、義維は将軍職を継いだ兄の足利義晴と対立し、義稙流(義稙・義維・義栄・義助)と義澄流(義澄・義晴・義輝・義昭)に分かれ、新たな戦乱の火種となった。
 
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