「明応の政変」の版間の差分

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この報によって義材勢は分裂。政長が敗死すると、義材は投降して京都[[竜安寺]]にて幽閉されることとなった。
 
同年6月、幽閉されていた義材は、側近らの手引きで[[越中国|越中]][[射水郡]][[放生津]]へ下向し、かつて政長の重臣であった婦負郡・射水郡分郡守護代・[[神保長誠]]を頼った。さらに、義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りが越中下向につき従った([[越中公方]])。
 
== 影響 ==
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