「足利義稙」の版間の差分

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'''足利 義稙'''('''義材''')(あしかが よした(よしき))は、[[室町幕府]]の第10代[[征夷大将軍|将軍]](将軍職在位:[[延徳]]2年([[1490年]])-[[明応]]3年([[1493年]])。[[永正]]5年([[1508年]]) - [[大永]]元年([[1521年]]))。
 
== 略歴 ==
義政の養子となり、義政の死後に第10代将軍に就任する。しかし[[管領]]の[[細川政元]]と対立して廃立、幽閉されたが、[[越中国|越中]]へ逃れた。[[明応]]7年([[1498年]])に'''義尹'''('''よしただ''')と改名、[[永正]]10年([[1513年]])には'''義稙'''('''よしたね''')と改名する。
 
後に[[周防国|周防]]の[[大内義興]]を後ろ盾にして室町幕府将軍職として復帰するが、今度は管領の[[細川高国]](政元の養子)と対立して京都を出奔し、[[阿波]]で死去した。
 
== 生涯 ==
明応8年([[1499年]])に政元派との和睦交渉が進展したという認識から、義尹(義材より改名)は[[越前国|越前]]の[[朝倉貞景]]のもとへ移った。ところが政元派との和睦は不調となり、朝倉貞景や政長の子である[[畠山尚順]](尚慶)と同調して軍事攻撃による上洛へ方針転換したが敗北し、周防の[[大内義興]]を頼って落ち延びた。
 
永正4年([[1507年]])に細川政元が[[暗殺]]されると、義尹は将軍への復帰をもくろみ、永正5年([[1508年]])4月に[[大内義興]]や[[細川高国]]の支援を得て[[中国地方]]や[[九州]]の諸大名と共に上洛し、義澄を廃して再び将軍になった([[永正の錯乱]])。その後、義澄やその一派と将軍職をめぐって抗争するが、永正8年([[1511年]])8月の[[船岡山合戦|船岡山の戦い]]直前に義澄が病死し、さらにこの戦いにも勝利したため、義尹改め義稙の将軍職が確定した。
 
しかし大永元年([[1521年]])、管領の細川高国と対立して出奔した。高国は新将軍には義澄の子・[[足利義晴]]を擁立した。義稙は[[和泉国|和泉]]から[[淡路国|淡路]]に逃れ、ここで再挙を図って高国と抗争するが敗れ、大永3年(1523年)4月9日([[4月7日 (旧暦)|4月7日]]とも)に[[阿波国|阿波]]撫養(現在の[[鳴門市]])で死去した。[[享年]]58。
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