「和田夏十」の版間の差分

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その後市川がどうしても和田と共同執筆をしたい場合には、「久里子亭」<small>(くりすてい)</small>というペンネームを用いた。これは市川が[[アガサ・クリスティ]]を崇拝していたからで、和田の文才を敬うことに変わりはない、という市川の謙虚さがそこには言い含められている。
 
和田夏十の名はほぼすべ、映画&テレビを問わず、全ての市川作品にクレジットされている。[[乳癌]]発症後は闘病で脚本執筆が思うようにできない時期もあったが、それでも市川にさまざまなアドバイスをして和田風の脚本を書かせており、クレジットの有無にかかわらず和田夏十は市川映画と不可分の存在だった。
 
市川は自己の監督作品が称賛されると、「それは、夏十さんの功績です」と答えるのが常だった。実際二人の関係には「夫婦」や「同僚」のそれを越えた、「同士」のようなものがあった。
 
18年間の闘病の末、[[1983年]]死去。62歳の若さだった。{{享年|1920|9|13|1983|2|18}}
 
==作風・逸話==
和田の脚本に共通する特徴は、個性的なキャラクターが織りなす分りやすい人間模様と、テンポのいい絶妙なセリフで繰り広げられるホンネの会話に見い出すことができる。「誰にでも優しいってことは、誰にも優しくないってことよ」(『黒い十人の女』[[1961年]])をはじめ、今日の[[トレンディードラマ]]でよく耳にするセリフの中には、元々は和田の手によって書かれたものが少なくない。
 
[[三島由紀夫]]の『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』を映画化するにあたっては、主人公の内面に迫ってあまりにも完成度が高い原作を脚色するのは無理と判断、三島から創作ノートを借りてこれをもとにオリジナル脚本『[[炎上 (映画)|炎上]]』(1958年) 書き上げた。その一方で、脚本のないドラマである[[オリンピック]]のためには緻密な脚本を書き、これをもとに “記録映画”『[[東京オリンピック#記録映画|東京オリンピック]]』(1965年)を撮ったが、その手法は「芸術か記録か」という論争を引き起こすまでになった。
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和田の死後、市川の願いもあって、『和田夏十の本』が刊行された。 和田が残した数多くの脚本の中から代表作の『黒い十人の女』と『炎上』を収録し、これに未発表のエッセイ、創作、詩、評論などを加えた作品集で、友人だった詩人の[[谷川俊太郎]]が作品の選択と序文の執筆を行っている。
 
== 主な作品 ==
*[[木枯し紋次郎]]([[フジテレビ]]:[[市川崑]]劇場) 主題歌の『誰かが風の中で』も和田の作詩である。
 
==参考資料==