「マシンガン・ケリー」の版間の差分

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ケリーは1895年7月18日、[[テネシー州]][[メンフィス]]市の裕福な家庭で生まれた。子供時代の彼は特に問題も起こさずに、彼の家族は彼を伝統的な雰囲気の中で育てた。
 
ケリーはアイドルワイルド中学を卒業後、メンフィスで最も古い公立高校であるセントラル高校に進学した。そして1917年、[[ミシシッピ州立大学]]([[:en:Mississippi State University|Mississippi State University]])に農業を学ぶ為に進学するが、ここで彼の人生におけるつまづきの兆候が始まった。
ケリーは貧しい学生と思われ、勉学の成果は芳しくなく、しょっちゅう教職員とトラブルを起こしていた。
 
学生生活を送る間、彼はジュネーヴ・ラムジー(Geneva Ramsey)に出会いそして間もなく結婚し2人の子供をもうけた。しかし、彼は実家からの金銭的支援には頼らず生活を補う為、タクシードライバー等をしてなんとか生計を立てていた。だが、ケリーの父がラムジーを嫌っていたのと、そして金銭的な問題が解決しなかったこともあり、結婚生活はまもなく破綻した。
 
===犯罪===
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1928年2月11日にレブンワース連邦刑務所に収監されたが、彼はそこを模範囚として過ごし、早期釈放された。
 
その後まもなく、ケリーはキャサリン・ソーン(Kathryn Thorne)と結婚。彼女はケリーの為にマシンガンを購入し、そして暗黒街に彼の名を広める為にどんな手段をもいとわない人であった。
 
一部の歴史家は、小さな銀行強盗を繰り返していたケリーに「マシンガン・ケリー」と名付けたのも彼女だと主張している。
 
しかし、そんな苦労も犯罪稼業もオクラホマシティで起こした誘拐事件で終わりが見えてきた。
1933年7月20日、ケリーらは[[オクラホマシティ]]に住むチャールズ・F・アーシェル(Charles F. Urschel)と彼の友人ウォルター・R・ジャレット(Walter R. Jarrett)を誘拐、犯行時周囲に気を配り慎重に行動し誘拐に成功したが、その際、犯行現場に指紋などの証拠を残していた。これが後に[[連邦捜査局|FBI]]に送られることになった。
犯行から56日後、調査の結果ケリーらはメンフィスにあるJ・C・ティチェノール(J.C. Tichenor)の所有する家に潜んでいることが判明。ケリーらを逮捕する為、[[アラバマ州]][[バーミンガム (アラバマ州)|バーミンガム]]からFBI特別捜査官がメンフィスへ送られた。
1933年9月26日早朝、FBIとメンフィス警察がケリーの隠れ屋を急襲、ケリーとその妻キャサリンは逮捕された。
 
この逮捕の際、ケリーは武器を持たずにFBIらの前に出でて「''撃つなGメン!撃つなGメン!''!("Don’t shoot, G-Men! Don’t shoot, G-Men!" )」と叫んだと言われている。このGメン([[:en:G-Man (slang)|G-Men]])という言葉はそれまでは単に「政府の役人('Government Men')」を指す言葉であったが、この事件以降はFBI特別捜査官を指す言葉になった。(「Gメン」に関しては、同時代に活躍した[[ギャング]]、[[ジョン・デリンジャー]]がFBI捜査官に叫んだ言葉との説もある。)
 
 
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アーシェル誘拐事件とその他二つの事件は、いくつかの点でアメリカの歴史に名を残すものとなった。
まず、最初で最後の映像撮影の許可された連邦刑事裁判であった事。
そして、[[リンドバーク法]]([[:en:Federal Kidnapping Act|Lindbergh Law]])施行後、最初の裁判であった事。
[[エドガー・フーバー]]率いるFBIによって解決された最初の大事件であった事。
犯人を護送する際に初めて飛行機が使用された事。