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'''第6SS装甲軍'''は[[ナチス・ドイツ]]の[[武装親衛隊|武装SS]](戦闘部隊としての[[ナチス親衛隊]]の戦闘部隊)で編成された最初の装甲軍。
 
==第6SS装甲軍の編成([[バルジの戦い|ラインの守り作戦]]時)==
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===装甲軍の編成===
[[1944年]][[9月]]に第6SS装甲軍は編成された。
司令官にはヨーゼフ・ゼップ・ディートリヒSS上級大将が就任し、装甲軍は[[西部戦線]]のB軍集団所属となって「ラインの守り」作戦の準備に入った。だが、装甲軍に所属する4個の[[装甲師団]]の状態は良好では無かった。これらの師団は[[ノルマンディー]]の戦い]]から[[フランスからの]]撤退まで戦い続けて戦力は低下していた。再編成が成されたとは言っても内容は苦しいものであり、戦車は[[IV号戦車]]と[[V号戦車|パンター戦車]]混成で1個大隊を編成、重戦車大隊や駆逐戦車大隊を師団に編入してもう2個目の大隊とした(ドイツの装甲師団では1個装甲師団には連隊所属で2個大隊で編成)また兵の補充も90%行えたとされたが6週間の訓練しか受けていない兵や空軍や海軍からの2000名を充てられた師団もあった。それとさらに兵士以上に指揮官の不足も深刻となり質量共に戦力は高いとは言えなかった。
かった。
 
==ラインの守り作戦==
1944年12月16日早朝。ドイツ軍のラインの守り作戦は始まった。第6SS装甲軍は攻勢の中核となって[[アントウェルペン|アントワープ]]を目指した。その第6SS装甲軍は[[ヨアヒム・パイパー]]SS中佐指揮のパイパー戦闘団を尖兵として進撃を開始した。
だが、作戦は最初の一歩でつまづいた。[[国民擲弾兵]]師団と[[降下猟兵]]師団が米軍の戦線を破り、その後でパイパー戦闘団を先頭に装甲師団が進撃する計画だったが米軍の立ち直りの早さに戦線突破が出来ずにいた。
パイパー戦闘団は進撃路を変更。米第99歩兵師団を撃退して戦線の突破に成功した。その後パイパー戦闘団は進撃が遅れる他の部隊を尻目に[[地雷]]原を強引に突破してまで最先頭を進んだ。しかし、米軍は橋を爆破して進撃を阻み燃料集積所にある14万ガロンの燃料を燃やして戦闘団に利用されまいとした。これら米軍の行動にパイパー戦闘団の進撃が止められた。その後戦闘団は23日に後退するまでストゥモンとラ・グレーの森で米軍の攻撃に耐えた。
第6SS装甲師団の主力は19日に[[ミューズ川]]への突破を図る攻撃を開始したが、米軍第3機甲師団と第7機甲師団・[[第82空挺師団]]がこれを阻み第6SS装甲軍の攻勢はここで頓挫した。作戦全般を指揮するB軍集団司令部は攻勢の主力を第5装甲軍に移す事になるが、[[バストーニュ]]で苦戦したため第6SS装甲軍から第2SS師団以外の3個装甲師団が援軍として送られたがバストーニュは陥落しなかった。米軍の救援部隊到着や天候の回復から連合国空軍の参戦によりラインの守り作戦自体が敗北に終わった。