「マクシミヌス・ダイア」の版間の差分

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彼は、[[ダキア]]属州([[マケドニア属州]]と共にイリュリクムに属した)の[[ドナウ川]]周辺に生まれた農民であった。軍に入隊して優れた殊勲を上げ、[[305年]]には母方の伯父[[ガレリウス]]帝に引き立てられて[[副帝]]の地位を授けられ、[[シリア]]属州と[[エジプト]]属州とを支配するようになった。
 
[[308年]]、[[リキニウス]]帝が[[アウグストゥス (称号)|正帝]]となった後、マクシミヌス・ダイアと[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]はどちらも''filii Augustorum''(正帝の息子)を名乗った。そしてマクシミヌスは、[[310年]]の[[サン朝]][[ペルシア]]との戦役から後は、はっきり正帝として振舞ったと思われる。
 
[[311]]年にガレリウス帝が死去し、マクシミヌス・ダイアはローマ帝国の東側をリキニウス帝と分割することになった。リキニウス帝はコンスタンティヌス帝と連携を始めたので、マクシミヌス・ダイアは副帝を僭称してイタリアを支配する[[マクセンティウス]]と陰で連携するようになった。[[313年]]にリキニウス帝とはっきり決裂したが、[[小アジア]]のヘラクレア・ポンティカ(Heraclea Pontica )近郊にてツィラルムの戦い(Battle of Tzirallum )に大敗した([[4月30日]])結果、[[ニコメディア]]を経由して[[タルスス]]に逃亡し、8月に死亡した。