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en23:20, 7 February 2008 の訳
 
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[[Image:ChevalierLouisJaucourt.jpg|thumb|250px|Louis de Jaucourt]]
'''ルイ・ド・ジョクール'''(Louis de Jaucourt 、[[1704年]][[9月16日]] - [[1779年]][[2月3日]])は[[フランス]]の学者である。『[[百科全書]]』の記事のうちの25%、18,000の記事を執筆し、『百科全書』の完成に貢献した。執筆した分野は生理学、化学、植物学、病理学、政治史、に及んだ。貴族主義的な出自もあり、自由主義的な執筆者である[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]や[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]などの執筆者影に隠れることになったが、20世紀の半ばに再評価された。
 
[[パリ]]に生まれた。[[ジュネーヴ]]で神学、[[ケンブリッジ大学]]で自然科学、[[ライデン]]で薬学を学んだ。フランスに戻った後、20年をかけて6巻に及ぶ解剖学の著書Lexicon medicum universalisを執筆し、フランスでの検閲をさけて出版するために原稿をアムステルダムに送るが、運搬した船が沈み、20年かけた努力は失われた。1756年に[[ゴットフリート・ライプニッツ]]の伝記を執筆した。
 
ジョクールと百科全書のかかわりは出版者のMichel-Antoine Davidに頼まれて2巻に寄稿したのに始まった。その後の数巻にそれぞれいくつかの記事を寄稿し、徐々にかかわりが深くなっていった。1759年から1765年の間には1日に平均8個の記事を書き、トータル17,266項目の記事を執筆した。これは全記事71,818項目の約25%に相当し、百科全書の最多の記事作成者となった。4,700,000語の記事を書いた。特に後半の10巻から17巻においては全記事の30%から45%はジョクールの手になるもので、l'esclave de l’Encyclopedie (「百科全書の奴隷」)というあだ名がつけられた。
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ジョクールの関心は科学や生物学にあったが広い分野の記事を書いた。社会や歴史に関する記事では、ジョクールの政治的、思想的立場がうかがえる。戦争や君主国や人物やムハンマド・イブン=アブドゥッラーフムハンマドのなどの重要な記事を書き、ディドロや[[ヴォルテール]]のように明確な政治的立場をとることはなかったが、自由主義的な意見をもっていたことは明らかである。歴史に関する彼の作品のいくつかは過去の政治体制と当時のフランスとを比較することで、過激で反宗教的な内容が含まれていた。さらに奴隷制度や奴隷市場が自然の権利や自由に対するものとして批難する記事を書いた。
 
ロンドン[[王立協会]]を含む多くのアカデミーの会員となった。小惑星(6977)[[ジョクール (小惑星)|ジョクール]]に命名された。
 
{{DEFAULTSORT:しよくる るい}}
[[Category:フランス史の人物]]
[[Category:フランスの医学者]]
 
[[de:Louis de Jaucourt]]