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アメリカ女子テニス、1930年代-1940年代の名選手
 
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[[1939年全仏テニス選手権|1939年全仏選手権]]の混合ダブルスで、サラ・ファビアンは[[エルウッド・クック]]とペアを組んで優勝した。これを契機に、彼女はクックとの関係を深めていく。[[1939年]]9月に勃発した[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]の影響で、[[全仏オープン|全仏選手権]]と[[ウィンブルドン選手権]]は開催中止となったが、[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]だけは戦時中も続行された。[[1940年]]の全米選手権を最後に、ダブルス・パートナーのマーブルが「プロテニス選手」に転向する。サラ・ポールフリーはこの年にマーシャル・ファビアンと離婚し、クックと2度目の結婚をした。再婚して「サラ・ポールフリー・クック」の名前になった後、彼女はようやく[[1941年]]の全米選手権で宿願の女子シングルス優勝を果たした。6年ぶり3度目の女子シングルス決勝で、ポールフリー・クックは[[ポーリーン・ベッツ]]に 7-5, 6-2 で快勝した。15年の歳月を経てようやく夢を実現させた彼女は、優勝祝いとして家族での飛行機旅行を楽しんだ。その後彼女の妊娠が分かり、[[アメリカ海軍]]大佐として従軍した夫のエルウッドとの約束もあり、彼女はしばらく全米選手権から遠ざかった。
 
終戦の年、[[1945年]]にポールフリー・クックは全米選手権に戻り、再び[[ポーリーン・ベッツ]]と女子シングルス決勝を戦った。4年ぶり2度目の対戦で、ポールフリー・クックはベッツを 3-6, 8-6, 6-4 で振り切り、全米選手権の女子シングルス2勝目を獲得した。ベッツは[[1941年]]から[[1946年]]まで6年連続の女子シングルス決勝に進み、そのうち4度優勝したが、[[1941年]]と[[1945年]]の2度の準優勝がどちらもポールフリー・クックへの敗戦だったことから、対戦相手のことを「彼女は私にとってとげのような人でした」と回想している。[[1945年]]には、[[シンシナティ (オハイオ州)|シンシナティ]]市で行われていた「トリステート選手権」(''Tri-State Championships'':現在の[[シンシナティ・マスターズ]])で、夫のエルウッドとともに男子ダブルスにエントリーしたこともあり、夫妻は男子ダブルス決勝まで勝ち進んだ。
 
全米選手権女子シングルスで2勝目を挙げた後、彼女は[[1946年]]からプロテニス選手になった。この後エルウッド・クックと離婚し、[[ニューヨーク]]の実業家ジェリー・ダンジグと3度目の結婚をした。選手生活から引退した後、彼女はビジネスの分野でも成功を収め、テニス関連の著述活動にも携わった。[[1963年]]に[[国際テニス殿堂]]入り。[[1996年]][[2月27日]]、サラ・ハモンド・ポールフリー・ファビアン・クック・ダンジグは[[ニューヨーク]]で83年の生涯を終えた。